選挙の不正と、国の不正

 アメリカの大統領選挙で不正があった。そう言われているのがある。

 民主党ジョー・バイデン大統領が大統領選挙で選ばれたが、それは不正によっている。ほんとうは共和党ドナルド・トランプ前大統領が大統領として選ばれるのが正しいのだという。

 アメリカの大統領選挙で不正があったと言われているのや、ミャンマーで軍事政権が政治の権力をごういんにうばったのがある。それらから言えることにはどのようなことがあるだろうか。

 大統領選挙の不正の話は、不正があったかどうかの話ではない。あらためて見ると、選挙で不正があったのかどうかの話とはちがってくる。不正の有無の話とはまたちがった話になってくる。そう言えるのがありそうだ。

 選挙が正しく行なわれるか、それともそこで不正が行なわれるかは、国のなりたちに関わってくる。選挙で不正があったかどうかは置いておくとして、国のなりたちには不正があることが少なくない。国のなりたちには暴力が関わっていることが多いのである。

 国のなりたちには神話(myth)の物語が持ち出されることが多い。こういうふうなよいことによってわれわれの国はつくられたのだとする。そこには少なからぬ嘘が入っている。神話が言われているのがある裏には、暴力が隠ぺいされているのである。

 国をつくろうとするときに、そこにもともといた原住民の人たちを追いやったり殺したりすることが行なわれる。原住民の人たちに暴力がふるわれる。それによって国がつくられることになる。

 おだやかに平和なやり方によって国をつくろうとすることはあまりない。手段としてはあまりよくないものが使われて国がつくられることになる。手段はよくないが、とにかく国をつくることがいるのだといったことで国がつくられる。

 国をつくることを、選挙を行なうことになぞらえるとすると、選挙を正しく行なうのではなくて、選挙で不正をやるようなことでつくられるのが国だ。選挙でいえば、それが正しく行なわれることによるのではなくて、不正に行なわれることでつくられるのが国だろう。手段は悪いのである。

 選挙でいえば、不正によって国がつくられることになるのは、国はその地域の暴力を独占しているのがあるからだ。政治において人びとを支配することができるのは、最終には国が暴力を独占していることによる。国家装置である軍隊や警察を国は持っているのがあり、それらがうしろだてとしてあることで国は人びとを支配することがなりたつ。

 神話化されるのが国であり、そのさいにとられる神話の裏には暴力が隠ぺいされている。神話で言われていることをそのまま丸ごとうのみにはしないようにすれば、国はそれほどきれいなものではなくて、汚いところがいろいろにある。選挙でいえば、不正を色々にやって来ているのが国である。ずっと正しいやり方でやって来ているのではない。

 完ぺきに悪いものなのが国だと言うと言いすぎではあるが、少なからぬ悪いところをもつのはいなめない。ミャンマーの軍事政権には、国がもつ悪いところがろこつに出ている。あくまでもミャンマーの軍事政権は、自分たちがなしたことを神話化して正当化しつづけるものだろう。その裏には暴力があることは否定できない。

 正しく行なわれることがいり、そこに不正があってはならないのが選挙ではあるが、あまり不正があったとするのを強調しすぎると、話がずれて行く。客観の証拠となる事実がないのにもかかわらず選挙で不正があったのだと強く言うのは、話がずれていってしまい、国がもともともつ不正や悪さの話になってくる。

 国は個人の人権を侵害しやすいのがあるから、そこを見て行くことがいる。個人の人権を侵害しないように、国にたいして歯止めをかけて行く。国が不正をなしやすいことをもとにすることがいる。選挙で不正が行なわれることはいけないことではあるが、それと関わることとして、不正をなしやすいのが国だから、その国にたいしていろいろな歯止めをかけることがいる。

 なりたちからして国は不正をなしてきているし、不正をなしやすいのがある。個人の私にとってなにが危ないのかといえば、それは国だと言わざるをえない。立憲主義がしっかりととられていないと個人の私の人権が侵害されやすい。

 参照文献 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『公私 一語の辞典』溝口雄三超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫