首相に敬意をもっていても、中身のない駄目な質問もある―与党(または与党の補完勢力の野党)の議員からの質問にそれが目だつ

 野党の議員の質問には、首相にたいする敬意がない。乱暴だ。こうした声が言われている。

 そのことについては、こう問いかけられるかもしれない。その反対に、首相にたいする敬意があってなおかつ駄目な質問とは何だろうか。そうした駄目な質問がじっさいに行なわれているのかである。その例としてあげられるのが、首相の身内からのよいしょの質問だ。

 首相にたいする敬意があったのだとしても、たんなる時間の無駄にしかならないようなとるに足りない質問がある。そうであるよりかは、多少は敬意を欠いているのだとしても、きちんとした権力チェックになるような質問のほうがまだ意味がある。

 敬意があるかどうかは、そんなに大した条件であるとは言えないものだろう。ないよりはあったほうがよいし、最低限の敬意がいるのはあるが、それはいくつもある条件のうちのほんの一つにすぎない。もっと目を向けるべき条件が色々にあるはずである。そのうちでなぜとり立ててうわべの敬意をとくに気にすることがいるのかは疑問だ。国民の益になるようにすることが大切なのだから、そのことと、首相のことをおもんばかるということとをはきちがえるのはちがうことだろう。

 たとえ首相に敬意をもつのがいるのだとしても、それは首相と一体化することと同じだとは言えそうにはない。一体化してしまっては客観的に見ることができなくなる。

 首相について敬意をもって温かく見なしすぎることで、何が損なわれることになりかねないかというと、冷たくつき放して見ることだろう。時の政治の権力者は国民に大きな害を与えかねない力を持つのだし、暴力がまちがって使われてしまうことがあるから、そこにはたえず気をつけていないとならない。

 時の政治の権力に気をつけるためには、一般の個人を尊重することと、首相という時の政治の権力に敬意を持つこととを混同してはならない。一般の個人を尊重することの延長線上に、(ふつうの個人よりも)なおさら敬意を持つべきものとして首相を置くことは適したことだとは言えそうにない。きびしく見なすのであれば、十分に警戒をするべき対象として時の政治の権力を位置づけておくべきだろう。