桜を見る会とその前夜祭と、レッテル貼りと逸脱―のぞましいあり方とそこからの逸脱

 桜を見る会とその前夜祭では、いまの首相と政権にたいする批判は欠かせない。それを行なうのとともに、問題についてを掘り下げて見てみることもいるのかもしれない。

 問題を掘り下げて見てみるのは、民間のトヨタ自動車で行なわれているような、なぜなのかというのをくり返して投げかけて問いかけて行くものである。それでできるだけ根本に近いところを見て行けるようにする。

 表面的なところにたいして手を打っても、おきている現象にたいして手を打つことにとどまらざるをえない。浅いところにではなくて深いところを見ることができていれば、よりしっかりとした効果のある手を打つことができる。時間や労力をかけていって本質化することができていればそれができる。せっかくであれば、できるだけ本質化できた上で手を打ちたいものだ。

 社会学ではラベリング理論というのがあるそうなのだが、これによると、首相がしばしば答弁で持ち出すものである、レッテル貼り(ラベル貼り)というのがとりあつかわれる。レッテル貼りによって逸脱がつくり出されるのだ。逸脱するからレッテル貼りがされるのか、それともレッテル貼りをするから逸脱と見なされるのか、というのが問われてくる。

 のぞましいあり方がある中で、そこから外れているのが逸脱だ。のぞましいあり方と逸脱とのあいだに落差があることで問題となる。そのさいに、のぞましいあり方というのは必ずしも絶対的に固定化できるとは限らず、ちがうのぞましさを持ち出すこともできる。

 のぞましいあり方とそこから外れる逸脱があると、そのあいだに落差がおきるが、その落差を大きく見なすこともできるし、小さく見なすこともまたできる。のぞましいあり方を引き上げることもできるし、引き下げることもできる。逸脱を過大に見なすこともできるし、過小に見なすこともできるだろう。

 のぞましいあり方がある中で、そこから外れる逸脱がおきるのは悪いことではあるが、そこの落差がなぜあるのかということを問いかけてみることがなりたつ。なぜのぞましいあり方になっているのではなくて、そこから外れる逸脱がおきるのかである。その理由を探って行くとすると、必ずしも逸脱した当人にすべての責任を当てはめられるとは限らないことがある。その点については、個人の要因と、状況や構造の要因を見て行ける。

 のぞましいあり方とそこからの逸脱があって、この二つを善と悪とにきっちりと分けるのではなくて、改めて見直してみることもなりたつだろう。二分法できっちりと二つに分けて見ることが必ずしものぞましいとは限らないことがある。まれには、のぞましいあり方がまちがっていて、逸脱している方が正しいこともなくはない。

 逸脱者が正しいことは本当にごくまれなことではあるかもしれないが、ないではないことだ。具体の例でいうと、与党が党としておかしくなっている中では、そこから逸脱している人のほうが正しくなりやすい。報道では記者クラブのあり方がおかしくなっているとすれば、そこから逸脱している人(記者)のほうが正しくなりやすい。また戦時中では非国民と呼ばれた逸脱者は、いまからふり返ると正しいことが少なくなかった。それらの正しさというのは、全面としてのものとは言い切れないだろうが、部分的に正しいとか、部分的にまちがっているというのを、含みもっているととらえることができるかもしれない。

 いまの首相による政治でよくないのは、首相の勝手な都合によって、よい逸脱と悪い逸脱とを振り分けているところだとさし示せる。それを振り分けるのと共に、友と敵との対立に持ちこむ。首相の悪い逸脱の行為をよしとするのが友で、それを批判してくるのが敵と見なされる。

 スポーツでいうと、選手兼審判が自分に都合のよいようにその時々に応じて決まりの解釈を動かすことをしている。反則だと言われているのに、いや反則ではないということで、裏で反則の行為を必死にもみ消しているように映る。こういうやり方はのぞましいものだとは言えそうにない。とても浅い政治のあり方になってしまうし、社会が崩れてしまう危なさがおきている。

 参照文献 『社会問題の社会学赤川学トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『考える技術』大前研一