役に立たない(と見なされる)人間と、税金の無駄づかい―無用だと見なされる人間は排除されてもよいのか

 移動と食事と排泄ができない人は人間ではない。そういう人に税金を使うと、税金の無駄づかいになる。障害者の人を複数にわたって殺傷した事件を起こした被告は、そうした持論を述べていた。

 このことについては、さまざまなことがらが関わってくる。人間か人間ではないかという線引きを引くことについてや、政治の財政で税金をどう適して使うかや、どういう社会がのぞましいのかなどがある。

 色々なことがらが関わってくるから、それらを切り分けるようにして、問題を分割して見て行かないとならない。それらをいっしょくたにしてしまい、人間ではないということで、税金が無駄になることから、弱者を排除してもよいのだとするのは、はなはだ危険だ。

 人間か人間ではないかというところに線引きをして、分断線を引いてしまうと、人間ではないと見なされた人が排除されてしまう危険性が出てくる。そこには人間中心主義になっているのがあって、人間は一番えらいのかや、人間であるのならみんなが有用なのかや、みんなが役に立っていると言えるのか、などのことがとり上げられる。

 人間であれば、だれにでも色々な面があるのであって、たんに役に立つとか役に立たないとかということだけで見なされるのだと、たった一つの面だけでしか見ることにはならなくて、ほかの色々な面がとり落とされることになりかねない。

 無用だと見なされる人がいるのだとしても、それは一つの面であるにすぎないかもしれない。もっとほかの色々な面があるかもしれないし、また一つの面だけを固定化させて見るのは適していないことがある。人間であれば、変化することがあるし、ずっとそのままでありつづけるとは限らないから、あくまでもその時点においてはというのにとどまると見なせる。

 問題というのには二種類あって、はっきりとした答えがあるものと、はっきりとした答えがないものとがある。かりに問題があるといえるのだとしても、それについてのはっきりとした答えがないことが少なくない。一義では答えが決まらないのだ。学校の試験のように、たった一つの答えがあるのではなくて、一つの正解があるのではないものである。

 政治の財政において、税金の無駄づかいということについては、それがまちがいなくよくないのだとは必ずしも言い切れないものではないだろうか。色々な説があるのがあって、どの説をとるのかによって、どうすればよいのかがちがってくる。これが最終的な答えだというのがありえづらくて、相反するような説が並び立っているものだろう。

 すぐに答えを出すのは最短距離を行くもので、それは加速度による。そうしてしまうと、思わぬ穴が色々に空いてあるのをうっかりと見落としてしまいかねない。それに気がつかなくて、穴に落っこちてしまう。

 うっかりと気がつかなくて穴に落ちてしまうのを避けるには、最短距離ではなくて、最長距離を行くようにすると安全だ。加速度ではなくて遅速度で行く。そうすると穴が空いていることに気がつけるきっかけを持ちやすい。最短距離で近道を行こうとすると、かえって穴が空いているということがあって、それを避けるには、最長距離で遠まわりをあえてするのは手だ。

 かりに答えをとるにしても、それはあくまでもさしあたってのもので、最終のものではなくて、仮説にとどまるとしたほうが、大きなまちがいは避けやすいだろう。仮説には白い仮説と黒い仮説があるとされていて、もし万が一黒い仮説つまりまちがったものであったらまずいことになる。まちがいなく白い仮説だとは言い切れないし、白い仮説であったものがあとで黒い仮説になることがある。

 参照文献 『幸・不幸の分かれ道 考え違いとユーモア』土屋賢二 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『反証主義』小河原(こがわら)誠