国家主義(ナショナリズム)によることで、生産性の有り無しという線引きが引かれてしまう(線の引き方がきわめておかしい)

 性の少数者である LGBT の人たちにたいする支援の度が過ぎる。自由民主党の議員は、雑誌の記事で、行きすぎた LGBT の人たちへの支援はいかがなものかというようなことを言っている。

 政治として支援するのには税金がかかる。それをするに当たり、子どもを生む人たちへ税金を使って支援するのは少子化の対策という大義名分が立つが、LGBT の人たちはそうではないという。生産性がないと言っている。なので、あまり支援をするべきではないとのことだ。報道機関が LGBT についてを報じることで、政治家が人気とりでそれをとり上げるようになるので、報道機関はけしからんともしている。

 報道機関が LGBT についてを報道すると、(一部の)政治家が人気とりでそれをとり上げるからよくないのだということだが、政治家というのはあやつり人形のようなものなのだろうか。政治家が人気とりでとり上げるからよくないということだが、むしろとり上げていない政治家のほうに問題があるという見かたもできないではない。報道機関や政治家がとり上げるのは、意義があるからであり、何の意味もなくとり上げているわけではないだろう。

 生産性という言葉は人間にたいしてあまり使うべきではないのはあるが、自民党の議員は雑誌の記事でそれを用いているのは神経が行きとどいたあり方とは言えそうにない。たとえ LGBT ではなかったとしても、子どもを産まなかったり産めなかったりする人はいるのだから、生産性と LGBT を結びつけるのは適したこととは言えないのがある。無条件に子どもを産むというのではなく、色々な条件が関わってくる。先進国では、教育が進んで男性と女性のあいだの不平等が小さくなれば、子どもを産む数はあるていど自然に調整されて行く。どんどん子どもが増えて行くというふうにはならないものだろう。

 日本では、子どもを産みたい人に産んでもらえるようなきちんとした環境が整っているのかといえば、そうとは言えないのがある。子どもを産んで育てるにはそれなりのお金がかかるものだが、いま日本では社会の中の階級化が進んでいってしまっているという説がある。働いても賃金が低く生活が苦しければ、子どもを産んで育てるのをあきらめざるをえない。結婚をすることもままならない。経済の格差を改めることがいる。そうしたことをやらないで、LGBT のことをやり玉にあげるのは、まちがった悪玉化をすることになる。

 自民党の議員は、記事の中で、LGBT の人たちを支援するのは、行政によるものであり、それには税金がかかるのだとしている。これはたしかにそうではあるかもしれないが、そのいっぽうで、支援というのを税金(お金)に還元してしまっている。支援というのは必ずしもお金に還元できるものではないだろう。お金を払うか払わないかというのに還元するのではなく、一人ひとりの人間がもつ自由の幅を広げるようにするための手助けができればよい。

 LGBT の人たちを支援するというふうにすると、ある人を LGBT ということで象徴化することになり、他のさまざまな面が切り捨てられかねない。象徴化するのではないとすると、人間は色々な面をもつものであり、その中の一つの面として LGBT があるとする見かたが成り立つ。色々な面の中の一つとして LGBT の面をもっている人がいて、その人の自由の幅を広げられるように手助けすることができる。他者に危害を加えるのでないのであれば、自分で自分のことを自由に決めることがあってよいはずであり、それができやすいようになればよいのがある。