いまの首相による政権には総括することが欠けている―前望(プロスペクティブ)と後望(レトロスペクティブ)の関係

 いまの首相による政権の経済政策であるアベノミクスがある。これはいまいったいどうなっているのだろうか。それが気になるところだ。

 日本銀行は、総裁がその地位についたさいに、質と量の金融緩和によって、二年間で二パーセントの物価高を目ざすとの目標をかかげていた。この目標を達せられなかったら辞めるのだと言っていたのである。これはいったいいまどうなっているのだろう。

 まだ日本銀行の総裁は辞めていない(ずっとつづけている)のだから、そこからおしはかるに、辞めていないということは、二年間で二パーセントの物価高の目標が達せられたということになる。そうでないとつじつまが合わない。

 何をよい状態として、そこへ向かうために何をして、いまどういう地点にいるのかが、つまびらかとは言えそうにない。目的と手段とが転倒していて、手段の目的化となっている。

 総括することがなされていないから、これまでがどうだったのかが検証されていない。うしろ向きの視点がなくて、ただ前を向いているだけとなっている。ただ前に向かって進んで行こうというだけになっているのである。

 総括をして、うしろ向きの視点をもって、うしろ向きの正しさを持つようにしなければならない。それがなくて、ただ前に向かって進んでいっても、どこを目ざしているのかがわからないし、いま何をやっているのかや、いまどの地点にいるのかがはっきりとはしづらい。

 なんで総括をしてうしろ向きの視点を持つことがないのかといえば、それをするといまの首相による政権のぼろが色々とわかってくるからではないだろうか。ぼろが色々に出てしまうから、総括ができない。うしろ向きの視点やうしろ向きの正しさを持とうとはしない。ただたんにとにかく前に向かって行くというだけになる。

 せめて少しくらいは総括をして、うしろ向きの視点を持ってくれてもよさそうなものだが、それをいまの首相による政権がやらないのは、それを無駄なことだとしているからだろう。

 たとえば、桜を見る会とその前夜祭についての疑惑があるが、これを国会でとり上げるのは、総括するということなのである。どういうまずいことがあったのかを改めて見ることなので、うしろ向きの視点である。それをいまの政権は、やるだけ無駄だということで、協力する姿勢を示していない。もし協力すれば、いまの政権のぼろが色々に出てきかねないからである。とにかくぼろがおもてに出てこないようにすることに、いまの政権はやたらにやっきになっている。

 いまの政権が、疑惑を改めて見ることについて協力しようとしないのであれば、派生としておきてくる無駄が生じるのはある。二次的な無駄がおきてくる。その無駄を避けたところで、そうしたとしても総括が欠けてしまうのだから、前に向かって行く正しさもまた十分には持つことができなくなる。

 ただとにかく前に向かって進んで行けばよいというものではないし、そうしてさえいればうまく行くものではないだろう。うしろ向きの視点を持つようにして、総括をするようにするのはどうだろうか。

 総括をするのはいっけんすると無駄のように見えるものだが、それをしないと前に向かうことの正しさを持つことが十分にできなくなることは見のがせない。うしろ向きの視点(レトロスペクティブ)は、前に向く視点(プロスペクティブ)と関係しているので、そこの関係を無視して、ただやみくもに前を向くだけではうまく行きづらい面がある。

 参照文献 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 「いま、敗者の歴史を書くべきとき(戦後五〇年目の年 日本の論壇)」(「エコノミスト」一九九六年一月二・九日合併号)今村仁司