多数の人たちから選ばれているから、首相や与党は正しいのか―意味の固定化と相対化

 国の長になるのは、みんなから選ばれたことによる。それとともに、与党というのは、多くの人から選ばれていることによる。

 国の長である首相や与党は、みんなが選んだり、多くの人が選んだりしたから、正しいのだろうか。首相や与党のことをよしとしなければならないのだろうか。

 その問いかけについては、そもそも正しく考えるにはどうするのがよいのかという反問を投げかけることができるだろう。

 正しく考えるには、首相や与党のことをよしとするのはふさわしいことではない。首相や与党の言うことをそのままうのみにするのではなくて、疑うようにすることがふさわしい。

 首相や与党の言うことをそのままうのみにするのではないというのは、必然として首相や与党がすべて本当のことを言うのではないからである。もし、必然として首相や与党がすべて本当のことを言うのであれば、とんでもない善人たちだということができる。または、とんでもない善人たちであるかのように見なすということである。

 現実には、必然として本当のことを言うのではなくて、可能性として嘘をつく。嘘をついている可能性が少なからずあるし、嘘をつくことは可能だ。その可能性が小さくないので、疑ってかかることがいる。

 意味という点で言うと、みんなからまたは多くの人から選ばれたというのは、首相や与党の言うことややることがすべて正しいということを意味しない。それを意味しないのは、一つには、首相や与党というのは人間であるから、全能ではない人間はまちがいをおかすのを避けられないのがある。

 みんなからまたは多くの人から選ばれているからといって、それがまちがいなく正しいということを意味するものではないし、また少しの人たちからしか選ばれていないからといって、それがまちがっているということを必ずしも意味しない。まったく誰からも選ばれていなくても、正しいことがないではない。

 一つの意味というよりは、二つ以上の意味ということで、一面性ではなくて二面性によって見ることがなりたつ。みんなからまたは多くの人から選ばれたというのは一面性によるもので、それそのものは否定できないことだが、それだけだと一面性によるだけだ。そうではなくて二面性によって見ることができる。

 一面性で見るだけであれば、ただプラスということだが、プラスだけではなくてマイナスもあわせ持つ。順機能つまりプラスだけではなくて逆機能つまりマイナスがある。民主主義のマイナスでは、数の多い少ないによることで、数にできないものや、質をとり落としているのが否定できない。マイナスが大きくなると、民主主義が独裁制専制主義にいつの間にか横すべりする。歴史においてはナチス・ドイツにその例を見ることができる。

 参照文献 『正しく考えるために』岩崎武雄 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『「ロンリ」の授業』NHK「ロンリのちから」制作班 野矢茂樹(のやしげき)監修