あまりにもうみや汚れがたまりすぎてしまっているように見うけられる、いまの与党や政権―新しい大臣の選び方のおかしさ

 首相は、自分に向けられた疑惑について、きちんと説明を尽くせていない。うやむやなままになっている。そんなていたらくである首相が任命した大臣もまた、疑惑をかかえた人間がいく人も選ばれた。

 首相は自分で疑惑をかかえてしまっていて、そんな首相が任命した新しい大臣もまた、疑惑をかかえている人が選ばれている。これではたして、適材適所だと言うことができるのだろうか。

 新しく選ばれた大臣は、疑惑をかかえている。野党の議員はそれを放っておくわけには行かず、追及せざるをえない。それで野党の議員が国会で大臣の疑惑を追及するのは、ほとんど時間や労力の無駄に終わりそうなことではある。大臣がきちんと答えることは見こめず、はぐらかすことになるだろうからだ。

 そもそも、疑惑がある人間を新しく大臣に選ぶということが、おかしいことではないだろうか。そのおかしいことをやっていることにたいして、野党の議員が追及するのは、野党の議員がまちがっていることになるのだろうか。野党の議員というよりは、大臣の選び方がおかしいのであって、それはひいては首相がおかしいということになる。

 国の政治において重要な地位が大臣なのだから、その地位に就く前に、せめて自分の疑惑について説明を尽くすようにして、けじめをつけておくべきだろう。けじめをつけるために、説明を尽くして疑惑をあるていど晴らして片づけておく。身辺をあるていどきれいにしておく。それがものごとのあるべきすじ道であって、そのすじ道を通していないか、通せる見こみのない人を新しく大臣として選ぶのは、どういうわけだろうか。選ぶほうも選ぶほうであるし、選ばれるほうも選ばれるほうだ。

 与党や政権の中に、あまりにもうみや汚れがたまりすぎてしまっている。それで新しく大臣を選ぶことがおかしくなってしまっている。人を地位に就かせるさいには、ふさわしい人をふさわしい地位に就かせることがいる。誰にでも門戸が開いてあって、能力さえあれば地位に就けるといったように、形式(機会)の平等となっていなければならない。それがいまの与党や政権では、いちじるしい形式の不平等となってしまっていて、国の中央への忠誠をちかう人をとり立てる縁故主義(ネポティズム)をとっている。そのことによって国民の利益や国益を大きく損ねてしまっているのだと見られる。

 参照文献 『封印される不平等』橘木俊詔(たちばなきとしあき)編著 『「説明責任」とは何か』井之上喬(たかし)