国に嫌なところがあれば、国から去らなければならないのか―自由主義による自己決定権

 日本の国が嫌なのであれば、日本の国から出て行けばよい。そういうことが言われることがある。

 国ということではないけど、ある人がある町に住んでいたとしよう。その人が、その町について、嫌なところがほんの少しもないということはありえるのだろうか。まったく嫌なところがない町というのはありえづらい。少しくらい嫌なところがあっても、受け入れられるくらいのものであれば、そのまま住みつづけることにする。

 嫌なことが、ささやかなことであればまだよい。その嫌なことが、許容できないくらいのものであったらどうか。そのさいに、嫌なことの度合いと、その町に住みつづけるか、それともそこを去るかは、必ずしも連動はしない。その二つは別のことがらだととらえられる。

 住んでいるところに嫌なことがあるかどうかと、住んでいるところにいつづけるかそれとも去るかは、別のことがらだから、場合分けをして見ることができる。たとえ住んでいるところに嫌なところがとくになくても、住んでいるところから去ることはあるし、住んでいるところにすごく嫌なところがあっても、住みつづけざるをえないことがある。そこから去るからといって、そこが嫌なのだとは限らないし、そこにいつづけるからといって、そこが嫌ではないのだとは限らない。

 住んでいるところに嫌なところがあるのなら、そこから去ればよい、とただ言うだけなのなら話は簡単だ。じっさいの現実というのは、そこまで簡単ではないのではないだろうか。というのも、人それぞれによって持っている溜(た)めがちがうからだ。先立つものであるお金があるていど以上になければ、いま住んでいるところから移動したくてもそれができない。どこかに移動するにしても、自分の意思だけでそれができるのではない。そのさいに必要条件となるのがあるていど以上のお金だ。お金というのは平等に分配されているのではないし、社会の中で格差があるのだから、無いそでは振れない。

 たとえどこかの町に住んでいるということであっても、そこから移動するのは必ずしも簡単ではない。お金がなければ移動しづらい。町ですらそうなのだから、それよりも大きな都道府県や国という単位では、なおさらそれが強まる。より移動しづらい。

 理想論ではあるものの、国の中でどこに住んでも同じように人が幸せになれるのならよい。そのような理想的なあり方にはじっさいにはなってはいない。住んでいるところによってちがいがある。恵まれているところがあれば、恵まれていないところもある。恵まれていないところに住んでいる人は、恵まれているところに住んでいる人と比べて、自分はいま恵まれていないのだと思う、思想と信条の自由をもつ。その自由があるのだから、そこから、それを外へ表明する表現の自由がある。

 町や国などで、そこに住んでいる人が、町や国などにたいしてここがおかしいというふうに不満の声をあげるのは、一つには、嫌だとは思いながらもそこを去ることが簡単にはできないということによるのがある。たとえ去ろうとするにしても、先立つものであるお金がいるからだ。

 町や国などに住んでいる人が、町や国などについて、心や頭の中でどう思おうが、どういう不満の感想をもとうが、それはその人の自由だろう。そして、どう思ったのかを外へ表明することもまた自由だろう。なので、たとえ町や国が嫌だと思ったり言ったりするのだとしても、個人の自由の範ちゅうの中にあることなのだから、そこから物理的に去らなければならないということにはなりそうにはない。それのみならず、不満の声があればそれを受けとめて、町や国の中において、恵まれているところと恵まれていないところというふうに、格差がおきているのを改めるようにすることがのぞましい。

 ことわざでは、住めば都(みやこ)と言う。これにたいしてけちをつけるのはそうとうにやぼなことではあるけど、あえてけちをつけてみたい。そこに住みさえすればそこが都のように気に入るのだとは必ずしも言うことはできそうにはない。気の持ちようとして、そこに住みさえすれば都として感じられることはあるが、そうではないこともまた少なくはない。気の持ちようというのはそれなりに有用であって、大事なものではあるが、それは万能なものだとは言えないから、限界があるし、いついかなるさいにもよく働くものではなくて、悪く働くことがある。

 参照文献 『新版 主権者はきみだ 憲法のわかる五〇話』森英樹 『居住福祉』早川和男