議論をするというのは、時間をかけるということと同じ意味だとは言えそうにない―量と質(向き)

 あれだけさんざん議論をやった。それなのに、まだ議論をしようとするつもりなのか。時の政権への疑惑について、そういうことが言われることがある。こう言われることについて、個人としてはうなずけないところがある。

 時の政権にまつわる疑惑について、議論を行なう。そのさいに、その議論というのは、量と質という二つの点がある。議論をあるていど時間をかけてやったということだけでは、量しか見ていない。もう一つの質が見られていない。

 量と質というのは、量と方向性(ベクトル)というふうに見なせる。量をあるていどやったのだとしても、方向性つまり向きがおかしければ意味がない。方向性は問わないで、とにかく量だけはこなしたのだというのでは、変なあさっての方向に行ってしまっただけだ。

 量と質(方向性)という二つが問われるのだから、いちばんよいのは、最小の量でのぞましい質を得ることだ。それゆえに、量をたくさんかければよいというものではない。時間をたくさんかければよいということにはならない。むしろ、量というのは、無駄がなくて少ないほうがよいくらいだ。量を無駄にかけなければ、それだけ節約できたことになって、ほかのことに力をふり向けられる。

 量というのは、質や方向性があってのもので、質や方向性に裏打ちされていないとあまり意味がない。たんに量だけかけたというのだと、自己満足になっているおそれを否定できない。量をかけることだけが自己目的化するのだとまずい。

 時の政権にたいする疑惑の追及でいうと、疑惑がどうなのかを明らかにするという目的がきちんと果たされたかが問われるのであって、議論をするのはそのための手段と言えるだろう。手段が目的化するのだと、ほんらいとることがいる目的を見失う。時の政権にたいする疑惑が晴れず、疑いのまなざしがいぜんとして投げかけられつづけているのであれば、いくら議論をしたのだとは言っても、それは正しい質や方向性の裏打ちを欠いた量だったのではないだろうか。

 参照文献 『決弾 最適解を見つける思考の技術』小飼弾(こがいだん) 山路達也