国民(のはしくれ)からすると理解に苦しみ理解しがたいのは日本学術会議よりもむしろ与党である自由民主党とその政権のほうだと見なしたい

 国民から理解されるようであるべきだ。日本学術会議から政権が排除した六人の学者の人たちと会にたいして、与党である自由民主党菅義偉首相はそう言っているという。

 たしかに、菅首相がいうように、税金が使われていることがあるとすると、なるべく国民から理解されるようであることがいるだろう。まったく国民から理解されないようではまずいのはあるかもしれない。

 国民から理解されるかどうかの点でいうと、日本学術会議よりも、与党である自民党のほうが個人としては理解しづらい。国民のはしくれとして言わせてもらえるとすると、自民党の政権のやることや言うことには理解しづらいことが少なくない。いまの菅首相やそのまえの安倍晋三前首相の言っていることはちんぷんかんぷんなことがあり、よく意味がわからないことがある。説明の質と量がともにとぼしい。

 他の人にたいして言うよりも前に、まず自民党の政権がきちんと国民が理解できるような日本語を使うようにするべきだろう。国民がよく理解できないような日本語を政権は使うべきではない。それは日本語の破壊であり、矛盾した言葉の使い方であり、政治においては一番やってはいけないことの一つだ。

 日本語の使い方がひどくずさんなところが自民党の政権にはあるから、そこをまっ先に何とかして改めてほしい。それを改めるようにすることがまず先決であり、他の人のことをどうのこうのと言うのはそのずっとあとの話になる。

 国民にとって何が損になり何が不利益になるのかといえば、政治の権力がでたらめなことを言い、でたらめなことをやることなのではないだろうか。政治の権力がでたらめなことを言ったりやったりすることは、すぐに国民に損になったり不利益になったりはしないかもしれないが、じわじわと国や国民にとって悪くはたらいて行く。ゆでがえる現象のように少しずつゆで上がって行く。気がついたときには国や国民にいろいろな損や不利益がおきていたといったことになる。悲観論で見ればそう見なせる。

 なぜ政権が日本学術会議のことを目の敵にするのかといえば、それは政権にとって利用価値がないからだろう。政権にとって何が重要なことなのかといえば、それは政権が政策をなすさいのやり方から察することができる。

 政権が政策をなすさいには、政権や自民党に益が流れこむようにひもづける。政権や自民党に益が流れこむように誘導する形をとる。そうした形をほぼ必ずといってよいほどに政権は行なう。そうではない形の、ただ純粋に国民のほうを向いて国民のためになるような政策をなそうとすることはほぼないものだろう。そういう動機づけを政権はもっていないのだとかんぐれる。

 政権がただたんに国民のほうを向く動機づけをもっていないだろうことは、そもそも国民の一般は顔が見えづらいものだからだ。だから政権は国民の一般のほうを向いていないだろうことが察せられる。政権がどういったところに顔を向けているのかといえば、政権や自民党にとって益になることをしてくれる特別利益団体などだ。政権のことをそんたくしてくれるたいこ持ちや権力の奴隷がいる。そういったところにしか政権は顔を向けづらいだろう。

 日本学術会議は、政権や自民党に益が流れこむように誘導しづらい。なぜそれがしづらいかといえば、会が質をもっているからだろう。あるていどのまっとうで健全な質を会がもっているからこそ政権や自民党から嫌われるのだと言えなくもない。会が質をもっているために、政権や自民党にとっての益といった量に還元しづらい。量にできる益はお金や票だ。そうした量に還元できない質を会がもっていて、そのことから政権や自民党にとってはうとましい。何とか無くしてしまいたい。

 量の益をよしとするのは量化可能性中心主義だ。これは画一化や同調を強いるものだ。空気を読ませてそんたくさせる。それがきかないのは量に還元することができない質をもつ。あらゆるものを量に還元してしまおうとするのは政治の権力による技術の一元の支配だ。そこに欠けているのは多様性や多元性だろう。

 固有の質を切り落としてしまい、なんでも量に還元して行く。そうすると政治の権力の技術による一元の支配の効率は高まる。効率は高まりはするが適正さを欠く。抑制と均衡(checks and balances)がはたらきづらい。まちがった方向に向かってつっ走って行き、そこに抑制がききづらい。効率が高いだけではなく少しでも適正さによるようにするためには、なんでも量に還元しようとしないで、画一化や同調の圧力を弱めて行く。服従や順応を強いないようにして行く。

 固有の質があってもよいようにして許容する。許容の度合いを高めて行く。そうして行くことがあったらよい。そうして行くことがなければひどく息苦しい非人間的な社会になり、個人の私の自由がなくなり、国家の公ばかりが極端に肥大化する。国家の公がどんどん肥大化していったのは戦前や戦時中の日本の国に見られた。そこに歯止めをかけるようにして、効率性を高めるだけではなくて適正さをとるようにして行くことも必要だ。まちがった方向に向かってつっ走って行くことへの歯止めがいる。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『公私 一語の辞典』溝口雄三