日本と韓国のぶつかり合いと、常識と非常識―哲学者の F・ニーチェによる神の死と最高価値の没落と価値の多神教

 韓国の政権の判断はまちがっていて、非常識なものだ。

 韓国は、日本との軍事情報をやり取りする協定の GSOMIA(ジーソミア)をとり止めたが、それを受けて、日本の野党の党首はツイッターのツイートでそう言っていた。

 日本と韓国との関わり合いにおいて、常識というのを持ち出すのはどうなのだろうか。というのも、日本の常識は韓国の非常識で、韓国の常識は日本の非常識、ということがあるからだ。常識か非常識かというのは相対的なものにすぎない。自分たちがよしとしているものを常識と言っているのだ。

 常識か非常識かという箱に入れるのではなくて、ていどのちがいであるというふうに見るのはどうだろうか。二元論ではなくて、連続観によって見るのである。連続観によって見るのであれば、白か黒かではなくて灰色の連続をなす。

 自分たちがよしとするものである常識というものについついしばられてしまうのがあるのはまちがいがない。それを絶対化しないようにして、白か黒かではない灰色の領域を見るようにすれば、問題の解決にとり組むさいに益になる。

 日本が自分たちでよしとする常識という箱に絶対の価値があって、よしとはしない非常識という箱に絶対の負の価値があるとまでは言えそうにない。その二つの箱はまっぷたつに分かれていて正反対となっているというよりは、そのあいだに引かれている線には揺らぎがある。そこで、二つの箱に入れるというよりは、ていどのちがいということになるのだ。

 日本の常識というのがあって、それをよしとする自民族中心主義(エスノセントリズム)がある。エスニック(自民族)がセンター(中心)になるということだ。世界は日本を中心に回っているのではないので、はじめは多少なりとも自民族中心主義になることが避けられないにしても、それにおちいりすぎないように気をつけたい。

 日本の常識や自民族による信念を補強しすぎると、自民族中心主義が強められる危なさがある。これが行きつく先は思考が停止する原理主義だ。日本の常識や自民族による信念をあまり補強しすぎないようにして、その信念を補正や修正することができればつり合いを取りやすくなる。自民族中心主義には、自民族のもつ信念を補強しすぎることで原理主義化するワナがある。

 日韓がお互いにぶつかり合うのは、日本が飛び抜けて正しくて、韓国が飛び抜けてまちがっている、ということにはなりづらい。というのも、お互いに二つ(以上)のものがぶつかり合いになるのは、それぞれがだいたいにおいて同じ次元にあるからなのである。まったくかけ離れた次元にある者どうしはぶつかり合うことができない。それゆえに、日本を優として韓国を劣とするのではなくて、なるべく差をつけないで対等な者どうしということで関係をもち合って、問題を解決することにとり組むのはどうだろうか。

 参照文献 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司