物語の生成と、それが通用するかしないか(有と無と生成の三つの視点がとれる)

 あると無いと成るがある。有と無と生成(ヴェルデン)だ。ここで生成されるものとして、物語がある。

 仏教では仮観(けがん)と空観と中観(ちゅうがん)があるとされる。脳科学者の苫米地(とまべち)英人氏が言っていた。仮観はあるで、空観は無いで、中観は成るだと当てはめられる。

 お金ということで言うと、お金とはほんらいはただの紙切れだ。そこには価値はない。これは無いということだ。仏教でいう空観だ。観念としてはお金はあるということが言える。これはあるということで、仮観だ。この二つによって、お金にたいする信用という物語が生成される。中観だ。

 腸内には、善玉菌と悪玉菌と日和見(ひよりみ)菌があるという。日和見菌がどう動くのかによって、腸内の菌のつり合いが変わる。そうしたように、ある物語が生成されて、それが本当だというふうにする人が多ければ、それが通用する。本当だというところに日和見菌が動く。そうしたところに、本当ではないということが言われて、そう受けとる人が多くなると、本当ではないということになって、物語が通用しづらくなる。

 経済でいうと、いまの政権による経済政策であるアベノミクスによって景気がよくなっているというのは、一つの物語だ。経済というのは物語で動くのだという見かたがある。これは『アニマルスピリット』ジョージ・A・アカロフロバート・シラーによる。物語が生成されて通用するのかしないのかは、物語のもっともらしさがどれくらいかということの移り行きに関わる。虚偽だということになれば、物語は通用しなくなる。

 参照文献 『人生のほんとう』池田晶子 『数学的思考の技術 不確実な世界を見通すヒント』小島寛之(ひろゆき)