首相が言うことは、抽象論や雰囲気によるものに響く

 元号が新しくなって、これから令和という新しい時代がはじまる。日本はよい国で、一人ひとりの国民が希望をもち、花を大きく咲かせられるようになったらよい。首相はそんなようなことを言っていた。

 水をさすようではあるが、いまやらなければならないことは、新しい元号である令和の時代に前向きに進むことというよりは、うしろをふり返ることなのではないだろうか。これまでがどうだったのかや、どういう失敗をしてきたのかを十分にふり返ることがないと、これから先にうまく行くかは確かとなりづらい。

 新しい時代に入ることから、前に向かって進んで行こう、というのは、近代による前進主義や前望主義のあり方だ。この近代の前進主義や前望主義ではうまく行かないことが色々とおきているのは無視できそうにない。それを無視して強引につき進んでも、ものごとはうまく片づくとはならず、問題は山積みのままだ。

 たんに、まえの政権であった旧民主党は悪夢だったとか、とても駄目だったとかというのでは、客観としてうしろをふり返ることにはなっていない。主観で悪玉化しているだけだ。もっとうしろまでさかのぼって、色々な失敗をふり返るようにして、それをくみ入れるようにして、これからどうするのかをさぐって行く。温故知新主義によって、温故と知新をとるようにするあり方だ。

 うしろなんかふり返ってもどうにかなるものではない。前を向くことが大切なのだ。そういう意見もあるだろう。それには一理あることはたしかだが、新しい時代がはじまるということで前を向いたところで、そんなに希望がもてるものだろうか。国民一人ひとりが大きな花を咲かせられるものだろうか。それには首を傾げざるをえない。

 大きな花を咲かせられなくて、花がしぼんでしまうような中で、生きて行くことになっている人は少なからずいるから、一人ひとりの花が枯れないようにするにはどうするべきかということがいるのではないか。花を大きく咲かせられず、花がしぼんだり枯れたりしても、それはその人の自己責任だ、というふうになっているような気がしてならない。

 権力をもつ政治家や高級な役人は、花を咲かせづらい国民にたいして温かい手をさし伸べられていないで、(すべての国民というのではないが)国民の一人ひとりの花をむしり取るようなことをしてはいないだろうか。悲観になりすぎるかもしれないが、へたをすると、失政(暴政といってもよい)がわざわいして、花も咲かず、草も生えず、すさみきって荒れはてた荒野があとに残る、なんていうことにならなければよいが。

 参照文献 『歴史という教養』片山杜秀 『暴政 二〇世紀の歴史に学ぶ二〇のレッスン』ティモシー・スナイダー 池田年穂訳 『「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人』青木人志 『格闘する現代思想今村仁司