財務相は、大衆迎合主義(ポピュリズム)のために努力しているようだから、努力をする場所や方向性がまちがっているのではないか(負の問題を発見することに努力してみてはどうだろうか)

 表現をするにはなるべくよいことを言う。そうしないと支持率が上がらない。努力して色々とよいことを探して言っている。財務相はそう言っていた。

 プレゼンテーションにおいては、よいところを言うのは当たり前だから、政権が自分たちのよいところを言うのはおかしなことではない。よいところを言ってもよい。こうした意見が言われている。これには必ずしもうなずくことができそうにない。

 民間の人が行なうプレゼンテーションと、政権が行なう説明は、はたして類似したものと見なせるのだろうか。私と公というちがいがあるから差異があるのであって、類似したものと見なすのには待ったをかけたい。ちがうものであれば、同じあり方ではないほうがよいことがある。

 政権がよい成果を出したということを言うのは、まずよい成果をほんとうに出しているのかに疑問符がつく。それにくわえて、かりによい成果が出ているのだとしても、それが政権の手(実力)によるものだということがいぶかしい。

 政権の手がらにするのであれば、政権とよい成果とのあいだにはっきりとした因果関係がないとならないが、客観の因果関係が成り立っているとは見なしづらい。客観の因果関係というのは誤解やとりちがえをすることが少なくないもので、はっきりとは分かりづらいものだ。それがあると言うのは、そうとうに政権による認知の歪みが大きくはたらいているはずだ。

 かりに政権の手によってよい成果が出ているのだとしても、それをさも自分たちの手がらだとしてほこることはふさわしいことなのだろうか。ことわざでは、能あるたかは爪を隠すと言う。爪を思いきり出していることがもうひとつ信用ならない。その爪は疑わしい。権力者が自分たちで自分たちのことをよく定義(性格)づけするのは権力の乱用だ。権力者による情報管制や情報操作の疑いはぬぐい切れない。

 かりに自分たちの手によってよい成果が出ているのだとしても、それを自分たちからあまり言わないで、後世の人たちの評価にゆだねるようにする、というのならまだわかる。そうではなくて、いま政権をになっている自分たちが、いまよい評価を得ることがいるのだというのは、功を焦っているように見うけられる。功を得ることを焦るのは失敗のもとだ。

 首相は旧民主党のことを悪夢だとして低く価値づけしているが、いまの時代において、じっさいより以上に高く価値づけされてしまっているものは少なくない。その筆頭がいまの首相による政権やいまの与党なのではないだろうか。過大評価(オーバーレイト)だということだ。

 価値というのは客観(絶対)ではなく主観(相対)によるものだから、こういう価値だと一方的に決めつけてしまってはいけないだろう。さまざまに見られるのはたしかだが、じっさいより以上に上げ底にされているものは少ないとは言えず、いまの政権は自分たちで自分たちを上げ底にしていることを隠していないのが、財務相の言うことからうかがえる。

 評価というのはなかなか難しいもので、過小評価(アンダーレイト)されているということが、かえって過大評価になってしまうのがある。逆説がはたらく。人間は承認を求めてやまないのがあるのは否定することができそうにない。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『科学的とはどういうことか』板倉聖宣 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『頭のよくなる新聞の読み方』正慶孝 『THE SCRAP 懐かしの一九八〇年代』村上春樹