具体の事例を抜きに危険であると決めつけてしまうと、性急な一般化になりかねない

 児童相談所が家の近くにできたら、引っ越すことを検討する。親から暴行を受けて、カッとなっている子が、外に飛び出て暴力を振るったりかつあげをしたりするかもしれない。テレビ番組の出演者はこう言っていた。

 この出演者の言っていることは、気持ちとしてはまったく分からないということではない。悪意があってのものではないだろう。しかし、じっさいに現実としてそうだとは言えそうにない。児童相談所に来る子どもにたいして、観念の思いこみによるステレオタイプの見かたになっている。

 児童相談所の近くが危ないかどうかというのとは話はずれてしまうが、子どもが外で暴力を振るったりかつあげをしたりするのをとり上げるのであれば、家庭崩壊や学級(学校)崩壊なんかが関わるのではないか。社会が全体としておかしくなっていて、それが一部の(または少ならからぬ)子どもにあらわれている。

 本当に児童相談所の近くが危ないのかどうかは、かなり慎重に見なければならない。児童相談所の近くの家が危ないというのはたんなる誤解にもとづくものであるおそれが低くない。児童相談所に来ない子と来る子を、ちがいがあるとして区別するのは適したことだとは必ずしも言えるものではないのは確かだ。

 場合分けをすることができるとすると、児童相談所に来ない子であっても、来ない子はさまざまである。荒れている子もいるだろう。児童相談所に来る子であったとしても、その中には荒れている子もいるだろうし、そうではない子もいる。児童相談所に来る子だからということで、すなわち危険だという見なし方は適したものとは言いがたい。来ない子だからといって、家庭が平穏だとはかぎらないし、安全かそうではないかということでは、すなわち安全だというのではない。

 もしも児童相談所に来る子が危険なのであれば、もっともその危険性をこうむるおそれがあるのは、児童相談所の中でものごとに携わっている人たちだろう。その人たちがどうかというのがある。いちばんよく知っているのは、中で携わっている人たちや、じかに関わっている人たちだろうから、その人たちの声を聞くことができればよい。それが本当のところに近いだろうから、判断をする前に、その声を受けとめるようにしたい。外からこうだというふうに決めつけると、誤解を生みかねないのがある。