言いあらわす技術と内容との不つり合い(過剰)のまずさがある

 言いあらわす技術と、その内容がある。内容というのは創造性や感性でもある。この二つがあって、どちらかだけが過剰になる。それはよくないことだ。音楽のピアノ奏者であるチック・コリア氏はそう言っているという。

 言いあらわす技術というのは、音楽でいえば演奏する技術に当たる。音楽では、言いあらわす技術と、その内容の二つにおいて、どちらかだけが過剰になってもいけない。どちらかだけが過剰になると不つり合いになる。

 音楽とはちがうけど、いまの与党による政治では、言いあらわす技術だけが過剰になってしまっていると見られる。この言いあらわす技術とは、国会において、与党の政治家がご飯論法や信号無視話法をやたらに用いているのをさす。

 いまの与党による政治では、言いあらわす技術が過剰だ。この技術というのは、おもに不正をごまかすための詭弁や強弁だから、まったくほめられたものではない。言いあらわす技術は過剰だが、そこに内容がともなっていない。創造性が欠けている。

 のぞましいのは、言いあらわす技術と内容との二つにおいて、どちらかだけが過剰にはなっていないものだ。かりにどちらかが過剰になるとしたら、内容のほうが過剰なほうがまだ救いがある。内容が過剰なのであれば、それを言いあらわす技術がともなっていないだけで、内実はある。しかし、言いあらわす技術が過剰なのには、ものによっては救いはあまりない。いまの与党による政治はこうなってしまっていると見られるから危ない。耳に快く響くような言葉だけは多いが、内実はなく、表面的な効果に走っている。