総裁選には出ないでほしいと、候補者にうながす。自由民主党の内閣官房参与は、自民党の総裁選で首相と対立することになる候補者が出ないように求めたという。これは異例だということである。
自民党の参議院の幹事長は、総裁選に出る候補者にたいして、あえて個人攻撃のようなことは無いかたちで総裁選にのぞんでほしいとしている。個人攻撃をいとわずに首相とぶつかり合うのなら、やっていることは野党と同じだという声があがっているという。
あえて個人攻撃のようなことは無いかたちでということだけど、あえてということは、本当はしたほうがよいということだろうか。ふつうだったら穏便にすますところを、あえて波風を立てるというのならわかるが、波風を立てるべきところをあえて穏便にすますのではことなかれ主義である。
総裁選を自民党がやる中で、はたからかいま見られることとして、一つには、首相をよしとする者と、よしとしない者を分けてしまっているのがある。そこに分断線を引いてしまっている。これは、国家主義において、国家にそぐう者とそぐわない者を分けてしまうのに通じるものだ。戦前や戦時中では、国家にそぐわない者を非国民だとしてレッテルを貼ったが、それと似たようなことになっている。
首相は国家のビジョンをしっかりと語っていて、すべては国家国民のためという精神をもっているのがすばらしい。自民党の参議院の幹事長はそう言っているが、これだと首相を善人に美化してしまっている。人間には二面性があるが、そのうちの悪の面を見ていない。首相や政権がもっているさまざまな悪いところが隠ぺいされて抹消されてしまう。悪いところやまずいところを表に出して行き、美化されているのを現実に引きもどさないとならない。
自民党の総裁選では、首相のほかに候補者は出るべきではないのだろうか。ほかに候補者がいなければ、首相にとっては楽だろうが、楽をして得られるものは少ない。首相のほかに候補者がいて、首相とぶつかり合うほうが得られるものは多いだろう。
ぶつかり合うのを避けて、穏便にことをすませようとすると、退廃や腐敗をまねく。そのおそれがある。それを避けるためには、複数の人で競い合うようにして、複数の異なる意見を受け入れるようにする。プラスならプラスで、それをよしとしてまとまってしまうのではないようにする。プラスがあり、かたやマイナスがあり、その二つがぶつかり合うのが、総裁選ではあってほしい。つね日ごろからそうであるのがのぞましい。
プラスとなるものとマイナスとなるものがぶつかり合うことにより、衝突がおきる。衝突がおきることによって火花を散らす。火花が散ることによって、そこに瞬間的に意味が浮かび上がる。浮かび上がった意味をうまくつかみとる。事物どうしがぶつかり合うあり方は、西洋の思想家のヴァルター・ベンヤミンが説いているものだという。
自民党の総裁選では、首相をプラスとして、それとぶつかり合うものであるマイナスとなるものを抑えつけてしまっている。これでは衝突がおこらず、意味が浮かび上がってこない。国民にとって本当にのぞましいことは何かという視点がとられていないで、首相をプラスとしてそれでよしとしてしまっているのである。はなはだしい手ぬきである。