いまの日本の首相が世界の首脳から一目置かれていて、彼がそう言うのならとされているのであれば、世界が危ないのではないかという気がしないでもない(個人的な見かたではあるが)

 首脳会談では、いまの日本の首相は一目置かれている。ほかの国の首脳が、日本の首相に意見をたずねて、それを特別なものだと見なす。日本の首相の意見はどうかというのが必ず問われる。話し合いがまとまらずにもめているときに、それによって、まとまるようになる。

 自由民主党の議員によると、世界の首脳が集まって会談をするときに、日本の首相の意見はとりわけ重んじられているという。世界の中での存在感は戦後最大だということだ。ほかの人と比べて首相がよいというのではなく、首相でなければならない(務まらない)とのことだ。

 自民党の議員はそう言っているが、はたしてそんなことがあるのだろうか。外交が優れていると言われているけど、それはいぶかしいものである。日本の首相の意見がそんなに優れたものだとは見なしづらい。神話や伝説のたぐいなのではないだろうか。上げ底でありでっちあげである。

 日本の首相がいなかったとしても、世界の首脳の話し合いは、落ちつくところに落ちつくだろう。いちおう日本の首相にも意見を聞いておくか、といったようなことで、意見を聞かれているにすぎないものなのではないか。それがたまたままとまりをとることにつながったことが一回や二回くらいはあったのかもしれないが、あくまでもたまたまのことにすぎない。一目置かれて重んじられているというのとは異なる。現実としてはそうしたことなのではないかと察せられる。

 世界の中で日本の首相の威光(プレスティッジ)がそんなに高いものであるとは信じがたい。もし威光があるのだとすれば、それには通訳をさしはさまないですむくらいのかなり高い英語力がいるはずだけど、そんなに高い英語力をもっているわけではないだろう。英語力がそんなに高くはないのは、国内において(母語である)日本語をあつかう力からうかがえることだ。国内における日本語の力がそんなに高くないのに、英語の力が高いはずがない。

 首相の日本語の力がそんなに高くないというのには異論があるかもしれない。そもそも日本語は(母語だといっても)難しいし、そういうお前はどうなんだと言われると、胸を張れるほどの自信はない。それはひとまず置いておくとして、国会では聞かれたこととは関係がないことをしゃべり、きちんと質問に答えていない現状がある。話し合いが成り立っていないのである。膿(うみ)を出すと言っておきながら出さないのがある。首相をはじめとする政治家による矛盾した二重言語が大手を振ってまかり通ってしまっている。

 あるときの首脳会談では、日本の首相は蚊帳の外だった。これが偽らざる現実の姿であると見られる。ときには蚊帳の中で、有効な意見を発せられることもあるかもしれないが、基本としては日本はアメリカに従っている国なのだから、そこまでの主体性があるとは言えそうにない。アメリカに従うことで、やっと日本の国内で権力を保っているのがある。アメリカの言うことには逆らえない、といったことになってしまっている。なげかわしいことである。アメリカがやることが必ずしも正しいとはかぎらず、まちがっていることも少なくはないはずだ。

 ほかの人と比べて、いまの首相がのぞましいというのは、本当に十分に色々な点について比べたのかがいぶかしい。自民党の議員は、ほかの人に比べて首相は優れているのではなく、首相でなければならない(務まらない)と言っているが、これはむしろ危険なことである。首相のことをかけがえがないとしてしまっている。首相というのはかけがえがあるものでなければならない。もしかけがえがないのであれば、それは民主主義というよりも権威主義である。かけがえがあるようにして、無理をしてでもかえがあるようにしたほうが安全だろう。