思想チェックをしなくても、それがあるていど正しいものであるのなら、説明すればすむのがありそうだ

 思想チェックをしている。希望の党に属する中山成彬氏は、そのように述べている。党に新しく入ってくる人の思想をチェックするというわけである。

 党にそぐう思想をよしとして、そうでないものをとり除ける。これは、演繹によるあり方だといえるだろう。上から下にといったように、トップダウンのものである。内面の思想を干渉している。

 演繹によるトップダウンであるとして、そこでよしとされている思想が正しければよいが、まちがっているとやっかいだ。どんなものでも、すみからすみまで抜かりなく正しいものなどありそうにはない。

 遠近法主義によれば、あらゆる思想は一つの遠近法による解釈にすぎないものである。そこには物語があり、先入見がある。そうしたものを絶対化してしまうのであればまずい。神話となってしまう。

 思想チェックするさいには、その基準がどうなのかを見るのがあるとのぞましい。基準として、何かの大義をもっているとする。その大義がどこからどう見ても、だれが見ても非の打ち所がなく正しいものとは言い切れない。

 演繹によるのではなく、帰納としてボトムアップでやるほうが、複数の意見をすくいとれる。こうすることで、思想の押しつけになってしまうのを多少は避けることができる。

 人によっていろいろな意見の差異がある。その差異があることによってしか、ある思想の同一さを確かめることはできづらい。

 一つの思想をみながよしとしてしまうのではなく、そこから距離をとることがあってもよさそうだ。距離のちがいによってさまざまな見解があってもよい。みなが同化してしまうと、まわりがイエスマンばかりになる。そうではなくて、幅をもたせることができる。信じる(trust)か信じない(deny)かの中間に、ややそう思う(think)とかややそう思わない(don't think)、といったものもある。そうした幅があったほうが、自己決定ができるので、どちらかというと開かれているといえそうだ。

 実存主義では、実存は本質に先立つといわれる。ここでいう本質とは、たとえばある党があるとして、その中でよしとされていることがそれに当たる。そうした本質よりも先立つのが実存だと見なせる。そうではなくて、本質は存在に先立つとしてしまうと、本質主義になってしまう。これが行きすぎると、教条主義におちいるおそれを避けられそうにない。

 党としての主張があるのだとして、それは何らかの論拠によって支えられる。その論拠がどうなのかを示せればよい。そしてそれがきちんと主張を支えられていないのであれば、あまり説得性をもたせることができづらくなる。そうしたのがふまえられればよさそうだ。それにくわえて、思想のよしあしを選ぶのは、それぞれの人によって決められる。その決めた人を否定するのではなく、言っている内容にまちがいがあればそこを指摘できればよい。それでやり合えれば生産的だろう。

 転換点を示さないのであれば誠実とは言いがたい。たとえば憲法の改正をかかげるのだとすると、それはひとつの転換点となると見なせる。そうであるのなら、勢いにまかせてそれに突き進むのには賛同できない。まず、転換点に行くまえに、これまでを総括(概括)するなどして、認識のあり方を整理する。目だつものだけでなく、目につきづらく目だたないけど大事なことにも目を向ける。そうしたことがないのであれば急進であり性急だ。あとになってふり返ってみて、まずいやり方だったなと思ってもあと戻りがききづらい。