当為(ゾルレン)のかくあるべき自己と、実在(ザイン)のかくある自己とが、引き裂かれてしまう(本当の自己はどちらなのかが不明になる)

 不倫をしたことについて、まず身内である自分の家族に謝る。そして、相手の家族にも謝る。さらに、これまでに不倫関係で非を責め立ててしまった人へもわびなければならない。それをしたうえで、これからも政治家として自分がやってゆくことを認めてもらう。そのようにするのがのぞましいと、元大阪市長橋下徹氏はツイートで述べていた。

 橋下氏が述べているようにできればよさそうではあるけど、これは自恃(プライド)が高い人には無理かなという気がする。自分をたのむところがすごく強い人だと、色々な方面へ頭を下げるのは、あたかも自分がへこへこしているような気がするのではないか。そうしてまでも政治家としての自分の生命を延命させるのは、潔しとしない。そうした判断を下すことがありえる。人の噂も七十五日といわれるから、時間がすぎるのを待つ手もあるかもしれない。

 はたして政治家の不倫について、報道機関が報道するのはふさわしいものなのか。そうした疑問の声が一部から投げかけられている。たとえ政治家であっても、権利思想からいえば権利を有する。他人の目から干渉されないような、私的な活動の圏があってしかるべきである。そのように言うことができそうだ。

 不倫の行為はあくまでも私的な生活におけるできごとであり、政治の活動とはなんら関わりがない。であるからその二つを分けてしまったほうがよい。そうした見かたもできるけど、一方では、そんなにはっきりと分けることができるものなのかとの気もしてくる。不倫の欲求を抑制する意思のいかんは、何らかのかたちで政治の活動にもつながってくるのではないか。まったく無関係とも言いがたい。もっともこれは一つの観点にすぎないのはあるわけだけど。

 不倫は個人の問題であるのみならず、社会の問題でもあるかもしれない。なんで不倫をすることへの動機づけがはたらいてそれに動かされてしまうのかは定かではない。不倫の効用はいったいどれほどのものなのか。そうしたことは人それぞれかもしれない。明らかに人に物理的な危害を加えてしまえばまちがいなく違法ではあるが、そこまでではないのであれば、しつように叩いてしまうのが行きすぎになるおそれがおきてしまう。

 自由主義の観点からすれば、あまりに高い道徳の基準を人に当てはめるのはふさわしいとは言えそうにない。不倫をしないようにするのが、どれくらいの高い(低い)道徳の基準であるのかは、ちょっとよく分からないのがある。それは愚行や失敗にすぎないといえるのか、もしくはスキャンダルであるのかのちがいがある。そうした点にくわえて、一般人ではなく公人なのであれば、あるていどは人の模範になるようであることがいるだろうけど。

 報道のあり方として、もし政治家の不倫をとり上げるのだとしても、その一色で内容が構成されてしまうと、単色である。しかしそうではなくて、せめて二色くらいで内容を放送したらどうだろうか。一色は不倫をとり上げるわけだけど、もう一色として、他方ではこの人はこれまでにこんな政治の活動をやってきました、みたいにする。こんなような功績も上げてきました、なんていうふうにするわけである。そうすれば抑揚がつくし、つり合いが少しくらいはとれるかもしれない。