反日極左の自明さと、反日極左が悪いことの自明さは、確かであるとは言えそうにない

 学校が採用した教科書に、抗議の声がよせられる。教科書の内容が、日本を美化するのではない歴史の内容をあつかっているために、反日極左だとのレッテルを貼られてしまう。

 はたして、日本を美化するのではない歴史の内容をあつかっているからといって、その教科書が反日極左にあたるのかは定かではない。ひとつには、その歴史の教科書がつくられた経緯が、反日極左を目的としてはいないことがありえる。そして、学校でその教科書を採用したのについても、反日極左を目的としてはいないことがありえる。これは動機についての面だ。

 事実をねじ曲げてしまうことで日本を美化すると、嘘をついてしまっていることになる。しかしそうではなく、たとえ日本を美化しないで、日本をおとしめることになりはしても、事実をなるべくねじ曲げないでいたほうが、日本の国のあり方として醜くはないかもしれない。

 美しさとは、汚らしかったり、嫌ったらしかったりするものであってもよいはずだ。これは、画家の岡本太郎氏が言っていたことだったと思う。それからすると、日本を美化することが、そのまま日本を美しくすることには必ずしもつながらない。そういうふうに見ることもできる。

 戦前や戦中に、日本では非国民がつくられた。国にとって少しでも都合の悪いと見なされた人たちが、非国民であるとして吊るしあげられ、さげすまされた。そうされた人たちは、苦しい思いをしたわけだ。

 なぜ、戦前や戦中に、日本では非国民がつくられてしまったのか。いろいろな理由がありそうだけど、ひとつには、インスタント食品やファーストフードのように、てっとり早くその場をしのごうとしたためだと言われている。その場しのぎの手なのである。あまり深くは掘り下げられずに、とりあえず非国民とののしれば、それで何かが(ごく表面的には)正しいものだとされる。

 非国民と同じように、反日極左もまた人為によってつくられてしまう。そうしてつくってしまっている反日極左について、そのレッテルを貼る側は、製造物(者)責任が多少なりともあると見なせはしないだろうか。つくられた側に責任があるとは言いがたい。非はつくった側のほうに(も)あるだろう。もっとも、これはあくまでも一つの観点にすぎないのはあるけど。

 自己欺まん的自尊心(vainglory)におちいってしまうようだと危ないのがある。これは不毛(vain)になってしまうおそれが高い。多少はしかたがないだろうけど、行き過ぎてしまうのに歯止めをかけるのがいりそうだ。これをなるべく手放すことによって、社会はさまざまな人を抱えこめるかたちで成り立つ。

 事実であると見なしていることであっても、それを認定するさいに自分の意見が何らかのかたちで入りこむ。ありのままを記述することはむずかしく、人の手みたいなものが付け加えられざるをえない。そうしたのがあるから、いずれにせよ、自然なものであるとは言えなさそうだ。

 現実をそのままに記述することはできづらい。もしそれができるとするのであれば、知識の鏡理論によることになる。そうして鏡にうつるように現実が反映されたとして、それによってできあがった知識は疑いようのないものとは言えないだろう。何らかのかたちで物語となっているのはいなめない。

 心象と物理を切り離してしまうのも手だろう。どうしても心象に引っぱられてしまうのがあるから、その引っぱられたままでよいとか悪いが決められるのだと、かたよっているおそれが高い。たとえば反日極左の人がいたとしても、それは心象によるところがきわめて大きいのがあり、物理で見ればみなと同じ人間である。人間として見ればだれでも等しいだろう。そうした人間の面がとりあえずの足場になってもよいはずである。

 東洋の陰陽の理論で言えるとすれば、陰と陽は転化することがありえる。美が醜になり、醜が美になることもあるだろう。薬が毒になり、毒が薬になる。神が悪魔になり、悪魔が神になる。こうしたようなことがありえそうだから、陰は陽となり、陽は陰となることがあってもおかしくはない。利があって害がある、といったように一利一害で見ることができるのもありそうだ。

 東洋でいわれる陰陽のようなとらえ方をもしするのだとすれば、それを文法の品詞でなぞらえられる。品詞でいえば、名詞ではなく形容詞がふさわしい。かりに名詞を固体であるとすると、形容詞は液体にあたるだろう。たとえば、反日極左は名詞であるけど、これを形容詞にすることで、反日極左的、とすることになる。このように形容詞で言ったほうが、あたりが柔らかくなるというか、いわばひとつの作業仮説のようにならないでもない。こうして名詞で言わないようにしたほうが、まちがいが少なくなるし、無難になるけど、そのかわり確固とした非難はしづらくなるのはたしかである。