弱者とは誰か

 弱者って誰のことなんだろう。いちおう、表象(イメージ)としての弱者というのは表面的には分からないでもない。社会通念としての弱者というようなものである。まるっきり弱者の存在を否認してしまうのは横暴であり乱暴だ。しかしもはや、そうした共有できる弱者の像はしだいに崩れてきてしまっているのではないかという気がしないでもない。

 属性で弱者をふまえることができる。アイデンティティである。しかしそうではなく、ひとつのポジションまたはコンセプトとして弱者をふまえたほうが、より現実に適うようになるのではないか。これは、野球における塁のようなものである。弱者の塁というのがあって、たまたま今そこにいるのであり、何かのきっかけで今とはちがう別の塁に出るのだ。一般の塁とか、強者の塁などである。

 かりに、弱者が主であり、強者が客であるとする。もし属性で見てしまうと、これがそのまま固定されがちになる。しかし、今はたまたまその塁にいるのだとすれば、主と客を取り換えることができる。このように取り換え可能であれば、絶対弱者と絶対強者のぶつかり合いによる対立を和らげることができそうだ。

 もし相手が少しでも強者に見えたとすれば、その人を攻撃して責め立てることに躊躇はいらない。なにしろ、相手は強いのだから、それを倒すことに大義名分があるのだ。よいことではなく、よくないことをやっているのならなおさらそうである。これは、相手を属性として見ているときに成り立つ。

 相手が、強者の属性をもっているのではなく、たまたまその塁に出ているだけだとして見ることもできる。そうであれば、何かのきっかけしだいではたやすく強者とちがう別の塁に出てしまうのであり、そのことをふまえないとならない。相手がずっと強者の塁にとどまるとしてしまうのだと、現実を見誤ることになる。

 強者と弱者のあいだがらは、属性として固定して見ることもできる。しかしそうではなく、回転扉がくるくると回るようにして、入れ替わったり取り換えができたりするものなのだという気がする。われわれは、自己保存をおこない、ときに他者破壊をしてしまう点では強者である。いっぽう、特定の何かから被害を受けたり、また不特定の何かから構造的暴力を受ける点では弱者といえるだろう。

 主人と奴隷の弁証法というのがあるそうで、主人は奴隷がいなければその地位を得られない。奴隷は労働のなかで自己を鍛え上げて陶冶する。主人とわたり合えるほどの力をやがてつける。そうしたような、主人と奴隷のあいだにある社会的な矛盾があらわになり、大きくなってきているのだろうか。奴隷が主人になり、主人が奴隷になる、といったちょっとややこしい事態もありえそうである。

 ここまできて、ふり返ってみると、視野が狭いために、欺まんにおちいってしまっていたような気がする。国内よりも広く、地球規模にまで目を広げるべきであったと思いたる。国外において、物質的にひどく貧窮している人や、紛争などに巻きこまれている人からの呼びかけをないがしろにするのはまずい。国際的に、敵をなくす方向へ進み、もめごとの解決をめざす。くわえて、配分的な正義がなされればよい。こうした自由主義がおこなわれればよいと感じる。

 世界にまで視野を広げ、目を向けることも欠かせない。そういう視点は、ついないがしろになってしまうので、自分のなかで反省することができる。偽善ではあるかもしれないが、貧窮していたり、暴力を受けている弱者からの呼びかけを無視しないようにしたいものである。

 国内では、どうしても強者の論理がまかり通る構造がある部分は、やはり否定できそうにない。この強者とは、本性ではなく、運によるところがある。そこで、適者生存ではなく、運者生存なんていう指摘もされている。

 幸運である者はよいが、不運に見まわれている人を救い出して、社会のなかで持ち上げてゆくことはいると思う。でないと、いずれそう遅くないうちに全体が沈没してしまうだろう。ここにおいても、自由と配分的な正義があるのがよいと感じる。社会のなかで、不運にも(ほんらいあってはならないが)淘汰されかねないとして不安をいだく人に目を向けることがいるだろう。

 富のこぼれ落ち(トリクルダウン)はなかなかおこらない。であるから、社会の適合者ではなく、むしろ不適合者へむけてなにか救済の策を打ってみたほうがよいと感じる。このさい、その策は市場的な等価原理ではなく贈与原理による。

 そうした贈与原理にはなかなか賛同が得られづらいかもしれない。であるなら、等価原理でもよいから、ちょっと過激ではあるけど、無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)なんていうのはどうだろうか。これは新自由主義みたいなもので、そのさらに極端になったものである。国や政府すらいらないという。ただこれもまた多くの人からの賛同は得られないかも。

 いずれにせよ、国がもつ利益の体系について、それをどう還流(リターン)させるのかは、いま一度あらためて見ないとならないところがありそうである。