参拝と建て前

 祖国のために命を捧げた人たちに祈りをささげる。稲田朋美防衛相は靖国神社への参拝の理由をこのように説明した。先にアメリカの真珠湾で、日米による平和の宣言と演説が行なわれ、参拝はそこから帰国してすぐのことであった。

 稲田氏は祖国のために命を捧げた人と言っているわけだが、これは正確には当たっていないのではないか。正確には天皇のために命を捧げた人たちを祀っているわけである。したがって、天皇の味方と見なされた人を英霊として受け入れている。逆に天皇の敵だと見なされた人は日本人であったとしても受け入れられてはいない。そうした選別がとられているのだ。

 靖国神社は、戦前や戦中の皇国史観からくる、靖国史観をよしとする施設である。そこに本質があると見てよいものだろう。なので、公人が参拝するということは、そうした史観を正当化することにつながるわけだ。少なくとも、そういった心情や本音を内心にまったくもっていないとは言い逃れられないだろう。

 祖国のために命を捧げた人との稲田氏の発言は、邪推して受けとることが許されるとすれば、明らかに建て前上のものと見ることができる。その建て前には異論ははさめないところがあるけど、肝心なのは、表向きの発言の裏に隠された本音の部分ともいえる。そこを他がとやかく勘ぐったり忖度したりしないでくれと言ってもちょっと無理がある。当事者のとる言動については、その意図以上のものをはたの者は見てしまうものである。過去の発言との整合性の問題もある。

 靖国神社とは、けっして普遍的な意味をもったものとして、中立な慰霊の施設として見られるものとは言いがたい。偏った教義(ドグマ)による思想が核にある。だから支持されもし、反発されもする。支持することで、美談主義や政治的崇高につながるおそれがあるところが危うい。そうしたものを美化して肯定するのだとしたら、他からの反発を招いてしまってもしかたがない面がある。

 滅私奉公として、国家の強制的な公に命を犠牲にさせられてしまったのが多くの先人たちだろう。いまの時代の人が、それを勝手に都合よく解釈してよいものなのかははなはだ疑問である。いろんな受けとり方があってもよいわけだけど、いずれにしても、死者に意味づけをして仕立てあげてしまうことに多少なりとも注意を払うのがのぞましいと感じる。