アメリカのドナルド・トランプ大統領のウェブのいろいろなアカウントが停止されていることと、言論や表現の自由

 ツイッター社はアメリカのドナルド・トランプ大統領のツイッターのアカウントを永久に凍結した。ツイッター社だけではなくてその他のウェブのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)もトランプ大統領のアカウントを停止させている。

 SNSトランプ大統領のアカウントが停止されることは、言論や表現の自由の点からいってふさわしくないことなのだろうか。たしかに、言論や表現の自由はとても大事なものだから、それが最大限に重んじられることがいるものだろう。それはあるものの、あらためて見てみると、そもそもの話として、トランプ大統領SNS との結びつきがあまりにも強すぎることにまずさがあるのではないだろうか。

 いっけんすると、トランプ大統領SNS でいろいろな発言をすることはさも当たり前でごく当然のことであるかのようだ。いっけんするとそれは自明性があることのようではある。そこをあらためて見てみるようにして、異化してみたい。権力をもつ政治家が SNS でいろいろな発言をすることは、まちがいなくすべての国民にとって益になっているとは言い切れそうにない。

 権力をもつ政治家が SNS で気軽にいろいろな発言をすると、修辞学でいわれる人にうったえる議論になってしまいやすい。言っていることの内容ではなくて、どういう人が言っているのかの人のところが重みをもつ。トランプ大統領が言っていることだから正しいのだろうと受けとられてしまう。トランプ大統領が言っていることなのだから正しいことなのにちがいないとされてしまう。

 有名でたくさんの人からフォローされていると SNS の中で力を持つことができる。SNS の中でたくさんのフォロワーを抱えることで力を持ち、さらに現実の政治において権力を持っているのがあるから、政治家が力を持ちすぎてしまう。力を持ちすぎることで政治家がもつ自己欺まんの自尊心(vain glory)が肥大化しすぎることになる。権力をもつ政治家が SNS で発言をすると、たとえとるに足りないことを言ったとしてもそこにたくさんのいいねがつく。大したことがない内容や中身のことを政治家が言っても、ただたんに何かを言うことだけでもそれなり以上の効果がおきてくる。

 力を持ちすぎてしまうことがおきるから、権力をもつ政治家が SNS で発言をすることは使い方によってはわざわいすることがあり、必ずしもさいわいするとはかぎらない。使い方しだいのところはあるだろうが、権力をもつ政治家において SNS がどのような使われ方をされているのかを見られるとすれば、そう大した内容をもっていないことがめずらしくないのではないだろうか。

 どのような言説が権力をもつ政治家の SNS で言われているのかといえば、しっかりとした内容をもった言説が言われているのではなくて、大したことのない内容や中身のことが言われることが少なくない。しっかりとした内容をもつ言説を言うのには SNS はあまりふさわしい場とは言いがたい。どちらかといえば SNS は気軽な言説を流す場であり、それをするのに向いているところがある。

 かたくるしいことを言ってしまうのはあるが、しかるべきところでしかるべきことを言うことが大切なのがあるから、政治家がしっかりとした内容をもつ言説を言う場として SNS ははたしてふさわしい場だといえるのかをあらためて見るようにしてみたい。SNS にかぎらず、たとえテレビに出て権力をもつ政治家が発言をしたとしても、多かれ少なかれ偏向がおきてしまうのはまぬがれづらい。

 SNS でもテレビでもそのほかのところでも、権力をもつ政治家が用いる媒体は、国家のイデオロギー装置の性格をもつことになり、国家主義(nationalism)を強めてしまう危なさがある。SNS では権力をもつ政治家が力を持ちすぎてしまうことがおきてきて、たくさんのフォロワーがついてたくさんのいいねが押されることによって政治家のかんちがいが肥大化しやすい。政治家の自己欺まんの自尊心が肥大化することをうながしすぎるのがあるから、政治家がもつまちがった信念が補強されてしまうことはあっても、それがうまく補正や修正されることはのぞみづらい。政治家のもつまちがった信念が補強されつづけると認知のゆがみがどんどんひどくなって行く。

 参照文献 『「表現の自由」入門』ナイジェル・ウォーバートン 森村進 森村たまき訳 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信現代思想を読む事典』今村仁司編 『情報政治学講義』高瀬淳一 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『法哲学入門』長尾龍一 『哲学の味わい方』竹田青嗣(せいじ) 西研(にしけん)

アメリカの大統領としてだれが一番ふさわしいのかと、国の長としてだれを選べるかの選択肢の数の少なさと多さ

 アメリカの大統領には、ドナルド・トランプ大統領がふさわしいのかそれともジョー・バイデン氏がふさわしいのかどちらなのだろうか。そのさいに、国の長としてだれがよいのかを選ぶ選択肢の数が一か二か多かのちがいを見てみたい。

 アメリカの国をよくするにはトランプ大統領しかいないとするのだと選択肢の数が一つだけだとなる。一つだけしかよしとしないのは独裁主義にかぎりなく近い。独裁主義はもと(archy)が一つ(mono)のあり方だ。もととなるものがゼロなのは無政府状態(anarchy)だ。

 アメリカの政治は民主主義であるのとともに共和主義(res publicus、republicanism)によるとされているから、独裁主義のようなもとが一つしかないあり方はよしとされないものだろう。もとが一つしかないのではなくて二つより以上あることがのぞまれる。もとが一つしかないのをこばんで否定するあり方が共和主義のあり方だろう。

 選択肢がたった一つしかないのだと独裁主義になってしまうから、それを避けるようにして、選択肢が二つより以上あるようにする。選択肢が二つより以上あることが許容されるようにしたい。それが許容されるのは、その必要性があることによる。

 トランプ大統領だけがよいとしてしまうと、ジョー・バイデン氏は不要だとなってしまう。そうなると選択肢がたった一つしかないことになるので、まずいあり方になる。そのまずいあり方を避けるためには選択肢が二つより以上あることが必要であり、それが許容されることがいる。そこからトランプ大統領だけではなくてジョー・バイデン氏も許容されることがいる。

 できるだけいろいろな多数の選択肢があれば、多数(poly)のもと(archy)があることになる。多数のもとがあったほうが、全体がまちがった方向に向かってつっ走っていってしまうのを防ぎやすい。抑制と均衡(checks and balances)がはたらくことがのぞめる。自由民主主義(liberal democracy)のあり方だ。

 社会の中にはいろいろな見なし方の人がいるのだから、客観のたった一つだけの価値があるのだとは言いがたい。いろいろな価値があることになり、相対性や主観性をまぬがれづらい。それに応じるかたちで選択肢もたった一つだけではなくていろいろにあることがいる。

 現実には制約がついているから、その中から選べるいくつかの選択肢から選ぶ。その中からかりにトランプ大統領がよいのだとして選んだのだとしても、それをもってしてまちがいなくアメリカの国がよくなるのだとは言い切れないだろう。現実に制約がついている中の選択肢のうちの一つを選んだからといって、それをもってしてまちがいなく理想といえる大局の最適につながるとは言えず、局所の最適ができるかどうかにとどまる。

 理想論とはちがう現実論を見てみるようにしたい。現実に制約がかかっている選択肢のうちの一つを選んだからといって、そのことをもってしてまちがいなく大局の最適になるのだとは言えそうにない。選択肢のうちの一つであるトランプ大統領を選んだからといってそれによってたしかに大局の最適になるのだとは言えないのがある。あくまでも局所の最適になるかどうかがせいぜいだから、それ以上を強く言ってしまうと局所の最適化のわなにはまるおそれがおきてくる。

 もととなるものが一つしかないのは選択肢が一つしかないことであり、それだと局所の最適化のわなにはまってしまうおそれが小さくない。それを防ぐためにはもととなるものが色々にあるようにして、選択肢が二つより以上あることを許容して、多元主義(polyarchy、pluralism)によるようにしたい。対等な選択肢が二つより以上あることが許容されていれば、全体がまちがった方向に向かってつっ走っていってしまうおそれを少しは防ぎやすい。議会の内や外の反対勢力(opposition)を排除しないようにしたいものである。

 参照文献 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『一冊でわかる デモクラシー a very short introduction』バーナード・クリック 添谷育志(そえややすゆき)、金田(かなだ)耕一訳

記号としての新型コロナウイルス(COVID-19)のとらえづらさからくるやっかいさ―それは何か(what)の固有名詞の性格をはっきりと定めづらいところがある

 ウイルスの感染が社会の中で広まっている。その中で、新型コロナウイルス(COVID-19)は深刻なものなのかそれとも大したことがないものなのかのどちらなのだろうか。

 ウイルスは深刻なものだとも言われているし、大したことがないものだとも言われていて、どちらの声も言われている。このちがいはそもそもの大前提となる価値観のちがいである。人それぞれによって大前提となる価値観にちがいがおきていて、ばらばらになっているところが部分的にある。

 記号としての新型コロナウイルスは、たとえば目の前にあるくだもののりんごのようにじかに目で見たり手で触れたりできるものとは言いがたい。記号としての新型コロナウイルスは具体性によるものではないから、人それぞれによって記号のとらえ方にずれがおきてくる。それぞれの人の前提条件にずれがおきて食いちがいがおきてくる。

 目の前にあるくだもののりんごであればそこに具体性があるから記号のとらえ方に人それぞれのちがいがおきづらい。それとはちがって新型コロナウイルスは目に見えないくらいの小さいものだから不確かさがつきまとう。

 具体性の確からしさによることができづらいのが新型コロナウイルスにはあるから、それをとらえるさいにいることは科学のゆとりだろう。不確かなところがあるのが新型コロナウイルスだから、科学のゆとりをもつようにして、わかったつもりにはならないようにする。

 たった一つの見かただけにこだわらないようにして、科学のゆとりをもつようにして、いろいろになりたつ見こみのある仮説を否定しないようにする。まったくもって正しい仮説とまったくもってまちがった仮説といったように完全な二分法で分けないようにして、それなりになりたつ仮説なのであればそれを否定しないようにしておく。

 触知可能(tangible)ではないところに新型コロナウイルスのやっかいさの一つがあるのだとできる。そのやっかいさがある中で求められることになるのは科学のゆとりをもつようにすることであり、具体性や確からしさが欠けていることからくる決めがたさや不確かさがあることは避けることができづらいことだとして行きたい。

 ものごとを見て行くさいには、それはいったい何であるのかの何(what)のところに強い焦点が当てられやすい。これは、それは何だろう反射と言われるものだ。人間の大脳の中での反射のはたらきである。条件反射に当たるものであり、探求反射とも言われる。

 そこにあるとされるものが何なのかがわからないと、えたいの知れないものにとどまりつづけてしまう。それが何かがわからなくてえたいの知れないものでありつづけると不安が払しょくされない。不安を払しょくするためにはそれが何であるのかを決めつけないとならないのがある。

 えたいが知れないままにとにかく何かがあって何かがおきているとするのだとばく然としすぎている。何かがあって何かがおきている(またはおきていない)のをできるだけ特定して行くさいに、その特定のしかたが雑で乱暴だとまちがった見なしかたになることがある。

 特定できない不特定さと、はっきりと特定できることとがあり、そのあいだの中間のあわいがある。まったく特定することができない不特定さではなく、はっきりと特定することができるのでもない、その中間のあわいのところのものにはやっかいさがつきまとう。気体や液体だと発散や流動によるからそれが何であるのかを定めづらくて、固体だと定めやすいが、そのどちらでもある(どちらでもない)ありようだ。現代思想でいわれるものでは、地下茎(rhizome)は定めづらくて、樹木(tree)は定めやすい。

 特定化して対象化することができないのとそれらができるのとの中間のところにあることから二重性がおきてくる。対象化することができづらいところを抱えているが、そのいっぽうであるていどより以上は対象化することができるところもある。そうした二重性をもつものには不安定さがあることになる。はっきりと対象化できるのであればあるていどの安定性がおきるが、とらえがたいところがあるものは安定していないところをもつ。安定していないと変化して行くのがあるから、その変化することをくみ入れておくことがいる。

 参照文献 『論理表現のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『記号論』吉田夏彦 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『Q健康って?』よしもとばなな 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『安部公房全集五』安部公房(こうぼう)

日本の国が他国から侵略されるおそれと、日本の国が他国(他地域)を侵略して支配したこと

 日本の沖縄が中国に侵略される。沖縄が中国によってのっとられる。それを危ぶむ声がツイッターのツイートで言われていた。ツイートで言われているように、沖縄が中国に侵略されたりのっとられたりすることははたしてあるのだろうか。

 日本の隣国である中国によって沖縄がうばわれてしまう。それを危ぶむことがあるが、そこでとり落とされてしまっているのは、それいぜんのそもそもの話として、沖縄を日本が侵略してのっとったことではないだろうか。

 もともと沖縄は琉球王国だったのがあり、独立した地域だった。固有の文化をもつ。それを日本の国が無理やりに強引に日本の国の中にくみ入れた。そのいきさつがあることをくみ入れられるとすると、沖縄は日本の国の一部であるとすることにまったく何のうたがいようもないような非の打ちどころのない完ぺきな自明性があるとは言い切れそうにない。

 沖縄と同じように北海道にももともとアイヌの民族の人たちが暮らしていたが、そこを沖縄と同じように無理やりに強引に日本の国の中にくみ入れたのがある。アイヌの民族の人たちは固有の文化をもち、固有の暮らし方があった。それができなくなってしまった。それまでに送っていた暮らしのあり方をこれから先もつづけて行くことができなくなり、かってにその権利を日本の国がうばってしまったのである。

 北の北海道と南の沖縄は、厳密にはもともと日本の国の一部ではなかったのがあり、そこから低い位置づけのものにされてしまう。それが見られるのが、沖縄にとくにアメリカの軍事基地が集中してしまっていて、日本の全国にあるアメリカの軍事基地のうちの七割くらいが沖縄に集中してしまっているとされる。

 中国からの侵略をうれうよりも前に、やらなければならないこととしては、日本の国の中でおきてしまっている階層(class)の格差を少しでも改めて行くことだろう。北海道や沖縄は日本の本土よりも劣っている階層だとされているのがあり、そのことをおもてにとり上げて行きたい。そこから来ているのがアイヌの民族の人たちの権利をかってにうばったことや、戦争のさいに沖縄においてとりわけ大きな被害がおきたことだ。

 戦争においては沖縄はアメリカの軍隊と地上戦を戦わせられた。近代の戦争において地上で戦うことはきわめてひさんなことになるのがあり、それが沖縄で見られた。日本の軍隊は日本の国土の内でそれまでに戦争をした経験をもたず、他の国を侵略する戦争の経験しかもっていなかった。日本の国の内で戦争を行なうゆいいつの経験となったのが沖縄であるという。

 沖縄でアメリカと戦った日本軍は上の地位についていた人間が愚かだったのがあり、もしも上の人間が賢ければおきなくてもすんだ害がよけいに沖縄でおきてしまうことになった。日本の軍の上の人間が沖縄での戦いの中で愚かな命令を下したために、下の人間の命がよけいに失われることになったのである。日本の国や軍には下の人間の命を大切にする発想がいちじるしく欠けていた。下の人間の命は宝だとする発想がなかった。

 およそ三ヶ月ほどの戦いの中で、県のすべての人口が約四十五万人ほどいて、その三分の一より以上の死者が出たという。県民の三人に一人くらいが戦いで亡くなったことになる。県のすべての世帯に犠牲者が出たのがあり、犠牲者が出ない世帯はなかったとされるほどのきわめてひさんな戦いだった。

 戦前や戦時中は天皇制によって天皇が神とされていて、国民は洗脳されていて心脳が操作されてしまっていた。沖縄は日本の本土に強制に同化させられていたのがあり、天皇制で天皇を神だとするまちがったあり方に避けがたく巻きこまれた。国家主義(nationalism)による上からの洗脳の教育が大きくわざわいしたのである。日本の国は国民の心の内面にずかずかと入りこんで国民の心脳を操作しようとする悪いくせをもつ。

 戦争では沖縄にはとりわけ大きな害がおきてしまったのがある。本土よりも低い階層に位置づけられていた沖縄が本土を守るための時間かせぎの捨て石にさせられてしまったからである。本土を守るために沖縄だけを孤立化させて無援となった中で戦わせた。

 これまでの歴史の流れの中で、沖縄にアメリカの軍事基地が集中してしまっているのはそのままにしてよいことではないから、少しでも負担を減らすことが必要なことだろう。より先決に何とかしなければならないこととしてはそれがあるのがあるから、それを何とかすることが先にあることがいる。

 参照文献 『ひめゆり沖縄戦 一少女は嵐のなかを生きた』伊波園子(いはそのこ) 『日本史の考え方 河合塾イシカワの東大合格講座!』石川晶康(あきやす) 『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『心脳コントロール社会』小森陽一ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん)

新しくアメリカの大統領につく予定のジョー・バイデン氏には大統領としての客観の正当性はあるのか―政治家による(自己)正当化

 大統領選挙は盗まれた。選挙で不正があった。アメリカのドナルド・トランプ大統領はそう言っている。それで大統領の支持者の一部がアメリカの連邦議会の議事堂に不正に入りこむ犯罪を引きおこした。このことについてをどのように見ることができるだろうか。それについてを正当性や正統性の点から見てみたい。

 社会学者の宮台真司(みやだいしんじ)氏によると、正統性は正当性を含み、人々が自分から権力に従うことだという。人々が権力を認めて言うことを聞く。そのさいに権威のもとがどこにあるのかが関わる。

 アメリカの大統領の選挙では、選挙が行なわれたことは形式の手つづきなのをあらわす。形式の手つづきがとり行なわれたのがあり、その結果が出たことによって民主党ジョー・バイデン氏が大統領として新しく選ばれることになった。

 形式の正当性の点ではジョー・バイデン氏が新しくアメリカの大統領に選ばれることになることには一定の合理性がある。そう見られるのがありそうだ。アメリカの国の選挙にはそれなり以上の信頼性があるだろうから、まったくそこに何の信頼性もないとは言えそうにない。

 アメリカで行なわれる選挙にはまったく何の信頼性もないとは言えそうにない。もしもまったく何の信頼性もないのであれば、選挙を行なうことに意味はないだろう。選挙を行なってそこから結果が出るのは、だれかが勝ってだれかが負けるといった事実ができ上がることだ。事実(is)ができ上がることは、いちおうは価値(ought)とは区別することができるから、事実そのものには価値は含まれない。そういう見かたもなりたつ。

 事実として選挙でだれが勝ってだれが負けたかには、そこには価値が含まれないことになり、だれが勝ってだれが負けようともそれそのものには価値はない。ただの事実だからである。事実は価値ではないから、事実を知ったところでそこから価値は出てはこない。価値はまた別の話である。選挙でだれが勝ってだれが負けたかなどの事実がある中で、それが意味することになるよし悪しなどの価値については人それぞれにちがいがあるからそこには相対性や主観性がつきまとう。

 あらかじめ決まっているのではない任意のだれかが勝ったり負けたりすることになるのが選挙だ。任意であるのは、必須ではないことであり、具体のだれかが勝たないとならないとは言えないし、具体のだれかが負けないとならないとも言えそうにない。任意ではなくて必須になるのだとどちらかといえば民主主義であるよりも独裁主義や専制主義に近くなることになる。任意ではなくて必須になるのだと、形式の過程の手つづきよりも実質がどうかがより重んじられることをあらわす。

 事実と価値を分ける見なし方は哲学の新カント学派による方法二元論によって見たものであり、じっさいには事実と価値ははっきりとは区別できないところがあるとされる。事実の中に価値がすくなからず入りこむ。だから選挙で勝ったり負けたりすることに一喜一憂することになる。結果にたいしてよろこんだりがっかりしたりする。それが人間のあり方だろう。

 形式の正当性を満たしているのとはちがうところで、感情などの広い正統性においてはどうしても受け入れがたい。納得ができない。事実としての選挙の結果そのものであるよりは、価値のところで信頼することができない。信頼性を見いだせない。もしくは信頼性を見出したくない。それがあるために、トランプ大統領は選挙の結果で負けたことを引き受けようとはしていない。

 トランプ大統領は自分が権威を持ちつづけたい。自分の権威を失いたくない。じっさいに権威を持っている(持ってしまっている)のがあり、トランプ大統領の言うことをそのままうのみにして従う支持者が一部にいる。トランプ大統領はその自分がもっている権威を活用(悪用)しつづけている。

 広い正統性においては、トランプ大統領は自分が権威を持ちつづけたいのがあり、それを失いたくないのがあるから、おもに感情の面で支持者の一部をたきつけている。感情として受け入れたくないとするのは広い正統性が関わってくることだから、主として感情としてジョー・バイデン氏を新しい大統領として認めることをこばむ。

 あくまでも感情としてジョー・バイデン氏を新しい大統領として認めたくないと言ってもそこにかならずしも説得性があるとは言えないところがある。だからそこにより説得性をもたせるために正当性の響きをつけ加える。トランプ大統領は自分が言っていることに正当性の響きをつけ加えて正当化することを試みている。自分が言っていることにいかに合理性があるかを言う。いかに自分が言っていることが正義なのかを言う。

 つり合いの点でふさわしいあり方としては、形式の正当性の点にかぎっていえば、形式の手つづきである選挙をいちおうは行なったのがあるから、その点からするとジョー・バイデン氏が新しい大統領になったのを認められる。たとえしぶしぶではあるにせよそれを認められるのはあるが、それよりも広い正統性においてはジョー・バイデン氏のやることや言うことをそのままよしとすることはない。きびしい目で見て行く。これは一面性ではなくて二面性によって見るあり方だ。

 一面性で見てしまうと、ジョー・バイデン氏がアメリカの新しい大統領になることそのものを頭から全否定することになり、そこにまったく形式の正当性がないと見なす。ジョー・バイデン氏が権威を持つことをまったく少しも認めようとしない。

 一面性ではなくて二面性によって見るのであれば、新しい大統領にたいしていちおうは形式の正当性は認めて、そこに権威があることは認めつつも、だからといってやることや言うことをすべてよしとするのではない。大統領についてをきびしく見て行くようにして、批判をしつづけて行く。広い正統性においては大統領のことをよしとしていないのがあるから、半分は肯定しつつも、完全に肯定はしない。完全に大統領のことを肯定してしたて上げたり基礎づけたりはしない。民主主義におけるつり合いのとり方としては、全肯定や全否定とはちがったやり方がなりたつ。

 参照文献 『日本の難点』宮台真司 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也 『政治家を疑え』高瀬淳一 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『権威と権力 いうことをきかせる原理・きく原理』なだいなだ 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『知のモラル』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『人間と価値』亀山純生(すみお)

アメリカのドナルド・トランプ大統領は、アメリカや日本の国のことを愛しているのだろうか―政治家の自己保存

 大統領選挙は盗まれた。選挙で不正があった。アメリカのドナルド・トランプ大統領はそう言っている。

 トランプ大統領アメリカの大統領選挙で不正があったとしていてそのことにいきどおりを隠そうとはしていない。それはトランプ大統領アメリカの国を愛していることから来ていることなのだろうか。トランプ大統領がいちばん重んじていることとして、アメリカの国を愛していることが第一のことだと見なしてもよいのだろうか。そのことをまったく疑いようのない自明なことだとしてもよいのだろうか。

 そもそもの話としては、国の政治家でその国のことを愛している人は基本としていない。極端に言ってしまえばそう言える。その国のことを愛するのは国の政治家にならなくてもできることだし、その国の政治家であることはその国を愛することとは必ずしも結びつかないものだろう。

 国の政治家が何よりも愛しているのは自分に票がどれくらい集まるのかだ。自分に票がどれくらいの数だけ集まるのかに最大の関心を注ぐ。そこから国の政治家は理性が道具化しやすい。理性が道具化することで理性が退廃する。大衆に迎合することがおきてくる。大衆迎合主義(populism)だ。

 日本の国の中ではトランプ大統領のことを強く支持している人がいる。それはそれぞれの人の自由にまかされていることだからそれぞれの人が自分で決定する権利があることがらだ。そのうえで言えることがあるとすると、トランプ大統領は日本の国のことを愛しているとは言えないところがある。日本の国のことを嫌っているおそれがある。おべっかで日本の国のことを愛しているかのようなことを言うことはあるだろうが、本心はそれとはちがうところにある。そのおそれがある。

 日本の国のことをトランプ大統領は愛してはいなくて嫌っているのだとすると、そのトランプ大統領を強く支持することはとくに日本の国のためにはならないのではないだろうか。すくなくとも、トランプ大統領のことを強く支持することが日本の国のためになるかどうかははなはだしく不確定だ。トランプ大統領のことを強く支持することがまちがいなく日本の国のためになるとできるほどのうたがいようのない自明性があるとは言えそうにない。

 いちじるしい理性の道具化によって、理性が退廃していることがトランプ大統領には少なからずうたがわれる。もともとトランプ大統領は商売人であり、商売人はお金がもうからないと話にならず、少しでもお金を多くもうけるためにはどこかでずるや手抜きや搾取をしないとならないことが多い。適正さよりも効率性がより重んじられる。そこから理性が道具化して理性が退廃しがちだ。

 トランプ大統領は日本の国のことをアメリカの手下やしもべだとしているおそれがある。アメリカと日本とをたがいに対等な国どうしだとはしていない。ほんらいは国どうしはたがいに対等でなければならない。理想論としてはそうだが現実論としてはアメリカが上であり日本は下であり、アメリカはすぐれているが日本は劣っているとされてしまう。アメリカが日本を支配するのが当然のことであり、アメリカにとっての道具や手段が日本の国に当たる。

 民主主義にとって選挙は大切なものなのはたしかだが、選挙の結果の勝ちや負けがすべてだとなってしまうといちじるしく理性が道具化して理性が退廃する。トランプ大統領はそうなってしまっているうたがいが小さくない。それはアメリカの国のことを愛することとはちがってしまっているありようだ。たとえ選挙で負けた結果が出たのだとしても、負けたことについてはきちんと認めて引き受けて行く。

 科学のゆとりをもつようにして、選挙で負けた結果が出たことについてはそれを頭から全否定しないで許容して行く。それができるのであればぎりぎりのところで理性は持ちこたえられていることになる。それができないようなのであれば、いちじるしく理性が道具化していて理性が退廃しているおそれがある。政治家である自分の自己保存にかまけていて、自己欺まんの自尊心(vain glory)がおきすぎているのは、国のことを愛しているのとはまたちがったことなのをあらわす。

 参照文献 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『どうする! 依存大国ニッポン 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『法哲学入門』長尾龍一 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)

政治家が自分で生産する汚れやゆがみと、それの他へのなすりつけと悪玉化―汚染された情報の生産と蓄積

 大統領選挙は盗まれた。選挙で不正があった。アメリカのドナルド・トランプ大統領はそう言っている。

 トランプ大統領の言っていることをよしとする支持者の一部が、アメリカの連邦議会の議事堂に不正に入りこむ犯罪をおこした。それで死者が五名くらい出たという。

 支持者の一部がこれから先に暴力の犯罪をおこしかねないので、予防のような形でトランプ大統領のウェブ上のさまざまなサービスのアカウントが運営者の判断によって停止されている。トランプ大統領によるソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の投稿が、支持者の行動をたきつけて火に油を注ぎかねない。これ以上に火の手が大きくなるとそれを鎮火させるのにそうとうに手こずることになるおそれがある。

 表現や言論の自由からすると、トランプ大統領のウェブ上のさまざまなアカウントが停止されることは、自由をうばうことになるのだろうか。その点について、作家のスティーブン・キング氏は、満席の映画館の中で、(じっさいには火事ではないのにもかかわらず)火事だ、とうそを言う自由はない、とツイッターのツイートで言っていた。

 自由と汚れのかかわりを見てみられるとすると、自由があることによって汚れがばんばんまき散らされてしまう。自由があることによってどんどん汚れていってしまう。汚れがこれ以上ひどくならないようにするためには、自由を少し制限することはやむをえない。そうした見かたができるかもしれない。

 政治における汚れとは、情報政治における情報の作為性や意図性や政治性だ。社会の中に緊張やなげきの重荷がたまりつづけることである。汚れを少しでも少なくするために、汚れをつねに小出しに外に吐き出しつづけることが民主主義ではのぞまれる。反対勢力(opposition)を排除してしまわずに、なるべくさまざまなものをよしとするようにするような包摂性と競争性がいる。

 中心にいる者をそのまま中心化しつづけていると汚れがたまりつづけて行く。政権の交代が行なわれずに権力が長くなると腐敗がおきてくる。汚れを少しずつきれいにして行くためには中心にいる者を脱中心化して、辺境(marginal)にいる者をできるだけとり立てて行く。日ごろはわきに追いやられている辺境人(marginal man)はたまっている汚れをきれいにする役をになう。政治における辺境人は議会の内や外にいる反対勢力だ。

 自由の名のもとにおいて、汚れがとんでもなくひどくなってしまうと、その汚れのひどさによって社会がおかしくなる。あまりにも汚れがひどすぎることによって社会がおかしな方向に向かっていってしまう。そうなるとまずいから、汚れがひどくなりすぎているのを少しでも和らげるために、限定的に自由を制限することはまったく許されないほどにひどいことではないかもしれない。

 自分に自由があることで、自由に何かをなす。それで何かをなしたさいに他の人に悪い影響や害がおよぶことがある。そのことがあることをくみ入れられるとすると、自分に自由があるから好きにやってよいのだとは言えそうにない。自分に自由があることで何かをなすさいに他の人に不利益がおきることがあるから、ときには自分の自由が制限されることがいる。たとえ自分に自由があるからといって、政治家が自分勝手にあと先かまわずに汚れをばんばん外にまき散らしつづけてよいものではないだろう。自分に自由があるからといって政治家が自分のやりたいことをやりたいようにやりたいだけやってよいとは言えそうにない。

 汚れを他のものに押しつけて悪玉化する。それだと民主主義はなりたちづらいものだろう。トランプ大統領がやっていることは、汚れをぜんぶ他に押しつけることだから、民主主義にそぐうことをやっているとは言えそうにない。民主主義を壊してしまっているところが小さくない。

 他のものに汚れを一方的に押しつけるのではなくて、汚れを自分たちで引き受けるようにすることが民主主義ではいることだろう。トランプ大統領がやっていることは、アメリカが抱えているいろいろな汚れを他のものにぜんぶ押しつけて、それでアメリカをふたたび偉大にするだとか、アメリカは偉大だとかと言っているように映る。それはアメリカが自分たちで抱えているさまざまな汚れの隠ぺいだろう。

 中国や左派のことをとんでもなく汚れているものだとして悪玉化しているのがトランプ大統領の見なしかただ。これだと民主主義はできづらい。もっとアメリカが自分たちで自分たちの汚れを引き受けるようにして、自分たちの汚れを小出しに吐き出しつづけるようにしなければならない。そうしないと汚れがどんどん内にたまりつづけることになる。あるときにそれまでに大量にたまりつづけている汚れが一気に外にどばっと吐き出されるのだと、民主主義の失敗だ。

 他のものではなくて自分たちが汚れているのだとして、アメリカの国が抱えているさまざまな汚れを認めるようにして、それをつねに小出しに外に吐き出しつづけるようにして行く。他のものである中国や左派のことを悪玉化することにかまけるよりもそれがいることなのだと見なしたい。

 すでにアメリカの国は自分たちの中にさまざまな汚れを多くためこみつづけてしまっていて、それが一気にどばっと外に吐き出されてしまう危なさがおきている。それがあるのだとすると、そのことを何とかするためには、中国や左派などの他のものを悪玉化することで解決するのだとは言えそうにない。それは隠ぺいやごまかしになるのにすぎないものであり、虚偽意識によるものだろう。それよりもアメリカの国がきちんと民主主義を立て直すようにしたほうが効果がある。そのように見なしてみたい。

 民主主義を立て直して行くには、自分たちが抱えている汚れを他のものになすりつけないようにしたい。中国や左派にも汚れがいろいろにあることはたしかだ。それはそれとして(それについて批判をしてもよいのはあるが)、これまでにアメリカの国が自分たちで多くためてしまっている汚れを認めるようにして、それを少しでも外に小出しに吐き出すようにして行く。

 トランプ大統領が自分で多くの汚れやゆがみを生んでしまっていて、汚れやゆがみがたまることが加速化されている。そうとうな汚れやゆがみが生産されてしまっているのがあり、それが一気にどばっと外に吐き出されることになったのが、アメリカの連邦議会の議事堂に支持者の一部が不正に入りこんだできごとだ。このことのもとにあるのは、トランプ大統領がたくさんの汚れやゆがみを自分で生産してきていることにあるだろう。そこには健全な社会関係(public relations)や説明責任(accountability)がいちじるしく欠如しているのだと言わざるをえない。

 参照文献 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『情報政治学講義』高瀬淳一 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』細野真宏 『民主主義の本質と価値 他一篇』ハンス・ケルゼン 長尾龍一、植田俊太郎訳 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『入門 パブリック・リレーションズ』井之上喬(たかし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『その先の正義論 宇佐美教授の白熱教室』宇佐美誠 『寺山修司の世界』風馬の会編

アメリカのドナルド・トランプ大統領は、アメリカの国にとって最善や最高の大統領(政治家)だといえるのだろうか―政治家を(少なくとも半分くらいは)見切ることの重要性

 アメリカのドナルド・トランプ大統領のさまざまなウェブ上のアカウントが凍結されたという。トランプ大統領が使っているウェブ上のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のアカウントが運営者の判断によって使えなくなり、中には永久に凍結されたものもある。トランプ大統領の支持者の一部が暴力による犯罪の行ないをしていて、それをこれ以上うながすことを防ぐことがねらいだ。

 政治の権力者としてそうとうに強い力をもつ公人なのがトランプ大統領だ。私人とはちがって公人は自分の意見を外にあらわす場が色々にある。トランプ大統領のウェブ上の SNS のアカウントが停止されたからといって、トランプ大統領が自分の意見を言う場がいっさいなくなったのだとは言い切れそうにない。それよりもむしろトランプ大統領がウェブ上の SNS に依存しすぎていて、そこからのぞましからぬ力を得てしまっていたことが浮きぼりになる形だ。SNS またはウェブが抱えている危機だといってもよいだろう。

 アメリカにとって最善や最高の政治家なのがトランプ大統領だと見なしているのがトランプ大統領の支持者の一部だが、そう見なすのはふさわしいことなのだろうか。最善や最高の政治家がトランプ大統領だと見なしているトランプ大統領の支持者の一部とは別に、トランプ大統領のことを政治家として見切りをつけることには一定より以上の合理性があるのだと見なしたい。

 国の政治家を選ぶさいにはそこに探索費用がかかってくるために、最善や最高の人を選ぶことはできづらい。ほどほどの人が選ばれるのがせいぜいだ。ほどほどの人が選ばれることになるのは、たとえば最善や最高の人を選ぶためには一万円がいるところを、千円くらいしかかけられないためだ。最善や最高の人を選ぶためには国が持っているすべての費用をかけるくらいでないとならないけど(それでも足りないくらいだが)、それだと逆に不合理になる。選ぶとちゅうで力を使い果たす。切りがないからどこかで費用の限度を決めることが合理的だ。政治家を選ぶために使える費用には制約がかかっている。

 国の政治家としてせいぜいがほどほどの人が選ばれるくらいのところを、最善や最高の人が選ばれたのにちがいないのだと見なしてしまう。そうすると政治家を見切ることができづらくなる。政治家を見切ることができづらくなると機会費用(opportunity cost)が高くなる。ほかにもっと政治家としてましな人がいっぱいいるのにもかかわらず、あたかもことわざでいわれるおぼれる者はわらにもすがるといったことになる。わらにすがるのは見切りができていないことであり、じっさいには機会費用が高くついていることをあらわす。

 民主主義ではじっさいにはただの人にすぎないのを政治家として見なすことになる。国の政治家は擬制(fiction)であり、自然性によるのではない。役割(role)をになっているのにすぎないから、そこには人為性や人工性があることがぬぐい切れない。国の政治家の役割を演じているのにとどまる。役を演じているのにすぎないのだから、役を演じているかぎりは政治家だが、役を演じることをやめればそのとたんにただの人にもどるのにすぎない。

 役割を演じることをやめたとすればトランプ大統領はただのふつうの人だ。そこらへんにいるふつうの人とそれほど変わるものではないだろう。役割を演じることでそこにはくがつくことになってそれなりにさまになるのがあるが、はくをとり去ってしまえば等身大のありようにもどる。等身大より以上に見せかけていたのがなくなり、身の丈のむき出しのすがたがあらわになる。

 民主主義において選ばれた政治家は自然性によるのではないから、そこに気をつけるようにしたい。政治家はつくられたものにすぎず、人為や人工による産物だ。あまり政治家にたいして思い入れを強くもちすぎてしまうと、いざとなったときに見切りをつけることができづらくなる。機会費用が高くつくことになり、ほかにもっとのぞましい人がいろいろにいるのにもかかわらず、おぼれる者はわらにもすがるようになる。わらにすがってもしかたがないから、わらを手放すようにするのは手だ。少なくとも半分くらいは手放すようにして、両手でしっかりとがっちりと握りしめつづけないようにしたい。

 参照文献 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男 『民主主義という不思議な仕組み』佐々木毅(たけし) 『名誉毀損 表現の自由をめぐる攻防』山田隆司(やまだりゅうじ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利

きちんとした質疑応答の場にはなっていない、政権による記者会見―きびしく見れば記者会見や議論のやり取りとして成立していない

 仮定の質問には答えられない。自由民主党菅義偉首相は、記者会見で記者からの質問にそう言っていた。記者会見の中での記者からの質問が仮定のものであるとして、それには答えられない(答えない)のだと菅首相はしていた。菅首相のこの応じかたはふさわしいものなのだろうか。

 菅首相の記者会見における応じかたにまずさがあるのは、政権による記者会見がきちんとした質疑応答の場にはなっていないからである。政権による記者会見がもしもきちんとした質疑応答の場になっているのであれば、仮定のことを記者が質問したさいに首相はそれにまともに受けこたえるはずである。仮定のことを記者が質問したからといってそのことをもってして首相がそれを頭から退けることはない。

 菅首相が記者からの仮定の質問を頭から退けたのにたいして、その質問をした記者が満足するのだとは見なしづらい。満足できないことになる。そうなるのは、菅首相が質問されたことにまともに答えようとしていないからである。きちんとした受けこたえを首相から得られていないのだから、質問をした記者は満足できないことになるが、無理やりに満足させられてしまう。空気を読まされてそんたくさせられてしまう。お上への服従や同調の圧が場の中にはたらいているからである。理ではなくて和によってしまっている。

 ただたんに菅首相が何かを口にすればそれで記者からの質問に受けこたえたことになってしまっている。それだときちんとした質疑応答になっているとは言えそうにない。きちんとした質疑応答をするのであれば、ただたんに菅首相が何かを口から言っただけでそれをもってして記者からの質問に受けこたえたことにしてはいけない。

 菅首相が何かを口から言ったとして、それを言いっぱなしにするのはよくない。言いっぱなしにするのではなくて、質問をした記者が満足したかどうかをたずねなければならない。それを確かめることがいる。質問をした記者が満足していないのであれば、菅首相がまともに質問に受けこたえられていないおそれが高い。お上が答えるのに苦しむのはすぐれた質問である見こみが低くない。

 仮定のことには答えられないとする菅首相の受けこたえが記者会見の中で通ってしまう。それが記者会見の中で通ってしまい、言いっぱなしになってしまうことが意味しているのは、政権による記者会見があるべきあり方にはなっていないことをしめす。あるべきあり方にもしもなっているのであれば、仮定のことを記者が質問してそれが頭から退けられるはずがない。

 過去と現在と未来の時制でいうと、仮定のことを質問してはならないのだと、未来の時制を使ってはいけないといったことになりかねない。未来の時制のことを言うことが禁じられる理由がよくわからない。未来の時制は何かを言うさいの機能の重要な一つなのだから、それをお上が一方的に禁じるのは正当性があることだとは言えそうにない。

 ただたんに現在だけに安住しているのではなくて、過去と未来を見るのが人間のありようだ。それがよくはたらくこともあれば悪くはたらくこともある。現在の時点に気を集中させたほうがよいときもある。それはあるもののただたんに現在だけに安住しているのだと政治はなりたちづらい。政治においては現在の時点はむしろ相対化したほうがよいことが少なくないだろう。現在の時点に埋没しすぎずにそこから距離をとって対象化するようにする。

 現在だけを見てそれを絶対化するのではなくて、過去をきちんとふり返って行く。未来をきちんと見すえて行く。過去への後望と未来への前望がともにいる。政治家のビスマルクは、政治は可能性の芸術だと言ったとされる。可能性とはそうであるかもしれない(そうでないかもしれない)ことであり、時制では未来形にあたり、仮定のことだろう。

 日本語で色々に言うことができる中の重要な機能の一つをお上が勝手に一方的に禁じる権利はないだろう。未来の時制のことを質問されたら、それに答える義務がお上には原則としてあるのではないだろうか。その逆に原則として受けこたえないとするのは首をかしげざるをえない。その中にはまれには例外はあるかもしれないが。

 参照文献 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『相対化の時代』坂本義和

アメリカの国にとっていったいどのようなことが国を少しでもよくすることにつながることなのだろうか―多元性の重要さ

 大統領の支持者の一部が、アメリカの連邦議会の議事堂に乱入する。それでアメリカの警察とのあいだでぶつかり合いがおきた。ぶつかり合いの中で死者が四名ほど出たという。

 アメリカの大統領だったドナルド・トランプ氏の支持者の一部が引きおこした負のできごとについてをどのように見なすことができるだろうか。人それぞれによっていろいろに見なせるのにちがいない。その中の一つとして国家主義(nationalism)のまずさを見てみたい。

 国家主義では国民と国民ではない者とのあいだに分断線を引く。われわれとかれらを分けようとする。そのことによって国の中に分断がおきてしまう。われわれが中心化されることになり、かれらが排除される。

 トランプ氏の支持者の一部は、おそらく自分たちにとってのかれらを排除しようとしたのだろう。かれらに当たるものとして中国や左派がある。かれらを排除すればアメリカの国はよくなる。かれらがいつづけるとアメリカは駄目になる。だからかれらを排除しなければならない。かれらを排除するためであれば法の決まりを破ってもよい。法の決まりに反する手段を使ってもよい。そう見なしていただろうことが察せられる。

 アメリカの国を少しでもよくするためにはどのようなことがいるのだろうか。他国のことだからせん越なことではあるかもしれないが、そのうえで言わせてもらえるとすると、アメリカの国をよくするためには国家主義を強めることがよいのだとは言えそうにない。国家主義を強めてわれわれとかれらのあいだに分断線を引くのがよいことだとは言えそうにない。

 かれらに当たる中国や左派を排除するのは、いっけんするとアメリカの国のためになるように見えるかもしれないが、そうすることによってアメリカの国の多元性が損なわれてしまいかねない。できるだけ多元性があるのがのぞましいのがあり、そのためにはたとえかれらと見なされる者であったとしてもできるだけ包摂されたほうがよい。包摂するのではなくて排除するようだと多元性が損なわれることになる。

 国のことを愛して国のことをよしとするのはいっけんするとよいことのように受けとれるが、それによってかえって国が悪くなることがおきる。国のことをよしとすることだけが許されるのだと、自発の服従の主体が国の中に多く形づくられる。政治の権力からの呼びかけにすなおに従う主体だ。自発の服従の主体が多くなると国が悪くなってまちがった方向につっ走って行きやすい。

 日本の戦前や戦時中は、ほとんどすべての国民が自発の服従の主体だった。日本の国のことをよしとすることだけが許されていた。政治の権力からの呼びかけにすなおに従う主体だけが国の中にいることが許されていたのである。それによって日本の国が悪くなって、国がまちがった方向に向かってつっ走っていって、国の内外に大きな害がおきた。

 政治の権力者だったのがトランプ氏だが、そのトランプ氏からの呼びかけにすなおに従う自発の服従の主体がいる。その自発の服従の主体が引きおこしたのがアメリカの連邦議会の議事堂に乱入したできごとだろう。これは客観から見て正当化できることだとは言えそうにない。もしもこのできごとを正当化できるのだとすれば、それはトランプ氏からの呼びかけをうのみにしていてそれが全面として正しいとしていることによる。

 何が国にとって危ないことなのかといえば、アメリカの国にとってかれらに当たると見なされている中国や左派がアメリカをだめにすることだとは言い切れそうにない。それよりもむしろもっとより危ないことは、アメリカにおいて国家主義が強まって、われわれとかれらのあいだに分断線が引かれることだろう。かれらを排除する動きが強まる。アメリカの国の中の多元性が損なわれる。それらのことのほうがむしろより危険だ。

 アメリカの国のことを愛してよしとするからアメリカの国がよくなるのではなくて、それとは逆にアメリカの国のことを愛してよしとするからアメリカが悪くなったりだめになったりすることがある。これは国家主義が強まってしまうことによる。国家主義が強まることによる危なさが十分にとり上げられていない。

 国家主義が強まってアメリカの国のことを愛してよしとすることは、アメリカの国にとっていっけんすると薬になるように見えるかもしれないが、そこには強い毒が含まれていて、薬に見えるものが毒に反転する危なさがつきまとう。その毒はアメリカの国の中の多元性が損なわれてしまうことによる。かれらに当たる者を排除するのではなくてできるだけ包摂するようにして、われわれに当たる者を中心化しすぎずに脱中心化することがあったらよい。

 参照文献 『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』松木武彦 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 「ナショナリズムカニバリズム」(「現代思想」一九九一年二月号)今村仁司