天皇の権威は、男系の継承にその源があるとするのは、うのみにすることができづらい

 天皇の権威は、男系を継承することに源がある。大学の教授はそう言っているという。

 天皇の権威は、男系の継承を十分条件としてなりたつものなのだろうか。男系を継承していさえすれば、たとえどんなにおかしな人間性であったとしても天皇に権威があるというのには、うなずきづらい。

 男系を継承することと、天皇の権威とは、さして結びつくものではないのではないか。そもそも、男系の継承というのは、物語や神話によるものであって、絶対的な真理であるとは言いがたいものだろう。

 男系を継承することを源として、天皇に権威があるとするのは、まず源としての男系の継承ということに疑いを投げかけられる。源に疑わしさがある。源が疑わしいのだから、そこから来る天皇の権威にもまた疑わしさがある。

 天皇は現人神(あらひとがみ)として神聖化されるのではなくて、たんなる一人の人間であるのにすぎない。天皇制という枠組みにはめられることによって、人権が不当にうばわれてしまっているのもある。天皇制によって、天皇(天皇家の人々)は排除されてしまっているのだ。

 男系の継承ということで天皇に権威を見いだすのは、天皇を上方に排除しているのを示す。この上方への排除がふさわしいものなのかどうかには疑問符がつく。天皇は現人神ではなくてたんなる人間にすぎないのだから、あくまでもふつうの人と同じだというふうに見るのがふさわしいのがある。そこに、男系の継承ということではくをつけて、権威があるのだとするのには、個人的にはうなずけるものではない。

 参照文献 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司

政権の虚偽意識(イデオロギー)と、政権にすり寄る大手の報道機関の虚偽意識

 いまの首相による政権は、虚偽意識(イデオロギー)におちいっている。そうした政権に報道機関がすり寄ってごまをすって忖度をする。そうすると、そのようにしてすり寄った報道機関もまた虚偽意識におちいることになる。これはおもに、報道機関の中でも NHK についてを言ってみたものだ。

 NHK は自分たちで、いまの首相による政権にすり寄ることを、よいのだとしているのだろうが、それは大きなまちがいではないだろうか。国民の中にはさまざまな意見の人がいることはたしかだが、それであるからといって、いともたやすくいまの首相による政権にすり寄ることをしてよいものだろうか。

 政権がもし国民の民意からズレていれば、政権にすり寄る者(NHK)もまた、国民の民意からズレることになるのだ。この点にもっと NHK は気をつけるべきではないか。いまの NHK のあり方に満足している人もいるかもしれないから、そうした人のことを否定するものではない。それはそれであってよいことだけど、とくに NHK のニュースの報じ方には、より適正になるように(不適正にならないように)するための努力をのぞみたい。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司

フェイク・ニュースと、権力者による不当な定義づけと、権力者による虚偽意識(イデオロギー)の関連性

 フェイク・ニュースがはびこる。それと関わるものとして、このニュースはフェイク・ニュースだ、と定義づけをするのがある。じっさいにはフェイク・ニュースではないものについてまで、フェイク・ニュースであるというふうに決めつけることによって、フェイク・ニュースだという定義づけをするものだ。

 フェイク・ニュースと関わるものとして虚偽意識(イデオロギー)もある。このニュースはフェイク・ニュースだというふうに定義づけをすることには、虚偽意識が関わってくるのだ。権力者が自分たちに都合の悪いニュースについてをフェイク・ニュースだというふうに定義づけをするのは、おもに虚偽意識によるものだ。

 権力者による虚偽意識によって排除されるのがフェイク・ニュースだが、そのフェイク・ニュースとされるものが排除されるのは、権力者のことを批判していることによるのが大きい。権力者のことを批判するニュースや意見は、権力者から悪玉化されやすい。それで排除されることになる。権力者から一方的にフェイク・ニュースだと言いつのられることがある。

 権力者が自分たちに都合の悪いものを一方的にフェイク・ニュースだというふうに定義づけするのは権力の濫用だ。権力の濫用がおきないようにするために、表現や報道の自由が保障されている。表現や報道の自由において、権力者への批判が許されるが、権力者が自分たちへの批判のニュースや意見を不当に排除すると、その自由がほりくずされてしまう。

 フェイク・ニュースが報じられるのについては、気をつけないとならないし、できるだけ報じられないようであればよい。それとともに、権力者に都合の悪いニュースを一方的にフェイク・ニュースだと決めつけることはよくないことだ。そう決めつけるのは、権力者による虚偽意識と言ってよい。この虚偽意識は、フェイク・ニュースと似たようなものである。虚偽意識とは文字どおりに虚偽であるものだし、イデオロギーの語の由来は嘘ということから来ている。

 報道機関が報じることは、まったくもって正しいとか現実そのものということは言えず、何らかの偏向や認知のゆがみがはたらいていることは少なくない。それと同じように、権力者が言うことにもまた、嘘やごまかしが少なくはないのだ。どちらもともに、発せられる情報が多かれ少なかれ汚染されている。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学松永和紀(わき) 『情報汚染の時代』高田明

韓国がまちがっていて日本は正しいという絶対的な大きな物語はなりたたない

 韓国は一つになって日本に批判や文句を言ってくる。そのいっぽうで、日本は一つにはなれていない。日本の中には色々な意見がおきるので、一つにまとまることにはなりづらい。そこが日本の駄目なところであって、韓国にしてやられてしまう。テレビ番組の出演者はそんなようなことを言っていた。

 もしも韓国が一つのまとまりとなっていて、日本もまた一つのまとまりとなっていたら、たいへんに危険なことである。韓国と日本はともに、たった一つのあり方しかよしとはしていないことになる。しかもそれが、まっこうからぶつかり合うことになると、韓国と日本のそれぞれの国が自己保存(愛国)によって敵対し合う。

 じっさいには、韓国の中には色々な声があるだろうし、日本の中において色々な声があることはよいことだ。日本は民主主義の国なのだから、色々な意見が出ることがのぞましい。日本の中で色々な意見が出ないで一つのあり方だけに固まるようだと、民主主義がないがしろになりかねない。

 たとえ民主主義が大事だとはいっても、色々な意見が出るようであっては、国や社会の中がまとまらないではないか、ということがあるかもしれない。それについては、一つには、国や社会というのは民主主義よりいぜんに、そもそもがそれぞれの人々のさまざまな思わくによる遠近法によってなりたつものだ。集団の中には矛盾があるのを避けられない。

 自然界においては、多様安定相関の原理というのがある。これは、多様であることと安定することとが相関するというものだ。この原理は国や社会にそのまま当てはまる。国や社会が一つにまとまって固まると、かえって安定性を欠く。短期ではなくて長い目で見れば、色々な意見があることを許すようにしたほうが安定性がとれるので全体の利益になる。

 韓国がまちがっていて日本が正しいということが自明かどうかは、そこまで確かなことではないという見かたがなりたつ。まちがいなく自明とは言えないのだから、不確かであることをまぬがれるものではない。不確かであるのをくみ入れるようにして、ほんとうに正しいと言えるのかということを、さまざまな点について改めて見ることができる。さまざまな点をくり返し見直すようにして、たえず調整や修正をすることがいる。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『社会的ジレンマ山岸俊男 『論理的思考のコアスキル』波頭亮(はとうりょう) 『正しさとは何か』高田明典 『科学文明に未来はあるか』野坂昭如

漢字の読みまちがえと、(読みまちがえたことについての)歴史修正主義

 末永くお健やかであらせられますことを願っていません。首相はこう読みまちがえた。この読みまちがえは、天皇陛下の面前でのものだった。

 なぜ読みまちがえたのかというと、正しくはねがってやみませんとなっているのが、原稿にひらがなではなくて漢字で已ませんと書いてあったからだという。もし漢字ではなくてひらがなで書いてあったら、首相は読みまちがえなくてすんだことだろう。

 たとえ原稿にひらがなでやみませんとは書いていなくても、送りがなのふり方もある。已ませんではなくて、已みませんとなっていたら(ひらがなのミが入っていたら)、首相は読みまちがえを避けられたかもしれない。

 日本語は最後に動詞が来る構造だから、そのいちばん最後に来る動詞をまちがえてしまうと、それまで言っていたことの意味がひっくり返ってしまう。肝心かなめのところを首相は読みまちがえてしまったのだ。これがもし英語などであったら、(首相が読みまちがえたことをもとにすると)私は願っていません、と来て、そのあとにいったい何を願っていないのかが来る構造だ。

 首相は漢字を読みまちがえたのにも関わらず、それをあたかもなかったことであるかのようにして、動画を削除しているのだという。これはいさぎよくないものだ。このことについて、右翼団体から批判が投げかけられている。

 漢字を読みまちがえたのは、一見するとささいなことであると受けとれるのはあるが、そうであればこそ、そのまちがいを認めることがあってよいのはあるだろう。首相が読みまちがえたのだから、(ささいなことではあるにせよ)その非は首相にあるはずだし、またなぜ読みまちがえたのかについて、さまざまな要因がさぐれるはずだ。

完全な人間と完全な人工知能(絶対的な人間と絶対的な人工知能)

 人間か人工知能か。このちがいを相対的なものとして見ることができるとすると、ていどのちがいということになる。人間は非人工知能で、人工知能は非人間というふうにはっきりと分けられるのではなくて、人間は部分的に人工知能で、人工知能は部分的に人間だということになる。

 人間は純粋に人間であって、人工知能は純粋に人工知能だというのは、なりたつものなのだろうか。必ずしも自明だということは言えないものだろう。人間が活動する世界の中には、かなりのていど科学技術が入りこんでいる。科学技術は二進法などによるもので、それによる利便性を人間はかなりのていど得ている。

 人間と人工知能は、命題と反命題のような関係だとすると、弁証法によるものととらえられる。人間と人工知能がお互いにぶつかり合わないようにするためには、敵対しないようにして、お互いに友好になるような社会関係が築ければよい。

 人間と人工知能がはっきりと分けられないものだとすると、人間は人工知能ではなくて、人工知能は人間ではない、とは必ずしも言えそうにない。人間というものは自明ではなくて不明だというふうに見られる。人間という物語と、人工知能という物語があるという見かたがとれる。人間と人工知能とは、実体であるのではなくて、関係や差異によってなりたっているのだ。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『構造主義がよ~くわかる本』高田明

保守と位牌

 保守系まとめサイトで、位牌をつくることを呼びかけていた。自分の家の位牌をつくるのを保守系のサイトが手がける。売り上げのうちの一割が保守系のサイトに寄付という形で入ってくるという。

 位牌というのはもとは儒教から来ているものだという。儒教は中国や朝鮮半島で重んじられているもので、それが日本に入ってきたものだ。日本に固有のものではなくて、中国や朝鮮半島から来たものをよしとするのは、保守としてそれでよいのだろうか。

 参照文献 『沈黙の宗教 儒教加地伸行

暗から明へといった、中世からルネサンスへの移行の大きな物語はなりたちづらい

 旧民主党の時代は悪夢だった。首相はそう言っている。暗黒の時代だったという声もある。

 旧民主党の時代が悪夢や暗黒だったとすると、これは中世のようなものだ。そこから脱してルネサンスがおきたのが、いまの首相による政権ということだろう。

 少なからぬ人にとっては、いまが(いまだに)中世のようだというのがあるのではないだろうか。先行きが見えなかったり、生活に苦しんでいたりする人はいるのだから、そういう人にとっては、いまが悪夢や暗黒だということになる。それぞれの小さな物語があるということだ。

 参照文献 『男性論』ヤマザキマリ

小さいこいのぼり

 屋根より高いこいのぼりと言われる。昔は、というほど長く生きているとは言えないが、昔は大きなこいのぼりを家の外によく飾ってあるのを見かけたような記憶がぼんやりとではあるがある。

 大きなものではなくて、ごく小さいこいのぼりが通りすがりの家の前に飾ってあった。かなり小さいものが立ててあったのだけど、とても小さいがゆえに、それはそれでかなり愛らしいものだった。

血のコストというのは、独裁主義(ファシズム)や国家主義に結びつくのはあるが、平和に結びつくものとは見なしづらい

 血のコストをわがこととしてとらえるようにする。そうすれば、戦争にたいして慎重になるはずだ。政治学者の人はそう言っていた。平和を導くためには、徴兵制を行なうことがいるとしている。

 たしかに、当事者意識をもつことは大切なことだろう。日本人に当事者意識が欠けているというのは、当たっているところがないではない。日本人というふうにひとくくりにしてしまうのはまずいことではあるが。

 平和にするためには、血のコストをわがこととするのではなくて、命の大切さを言ったほうがよいのではないか。戦争とは話はちがうが、日本の社会の中では、まだまだ命が粗末にされていることが少なくはない。労働では、ブラック企業やパワー・ハラスメントなどがおきることにそれが示されている。

 平和にするという問題があるとして、その問題をどう解決するかがある。その解決の手だてとして、徴兵制にするのや、血のコストをわがこととするというのは、ふさわしいものかどうかに疑問符がつく。平和にするという問題を解決することが大事なのであって、徴兵制や、血のコストをわがこととすることが大事なのではない。平和にするという問題を解決するために、じっさいにその解決になるような手だてかどうかが肝心だ。徴兵制や、血のコストをわがこととするというのよりも、命の大切さをうったえることのほうがより大切なのではないか。

 命の大切さをうったえるといっても、きれいごとのように響くのはあるかもしれない。そう響くのはあるかもしれないが、そもそも血のコストというのもまたきれいごとだろう。戦争ほどかっこうが悪くてみじめでださいものはこの世にそうはない。戦争や軍隊がかっこうがよいというのは幻想にすぎない。そして、戦争や武力の行使によって踏みにじられてしまう(しまった)命は、かけがえのないものであって、大切なものなのだというのは、じっさいのことだろう。

 血のコストがどこかで支払われているという時点で、すでに平和ではない。血のコストが支払われているのは、紛争があることをあらわす。世界の中で物理の暴力による紛争が行なわれないようにして、血のコストが支払われないようにすることがいる。そうして行くことが、平和にすることだろう。

 徴兵制は、平和をうながすことを目的とするものではないのだから、それによって平和を導くというのは目的からするとそぐわない。徴兵制に国民がとられることによって、血のコストにたいする国民の意識が高まって、慎重になるという流れになるという確かな保証があるとは言いがたい。徴兵制によっていったい何にたいする慎重さが高まるというのだろうか。市民(公民)的不服従といったように、徴兵制にとられることを拒むほうが、むしろ慎重さが身につくのではないか。

 慎重さが大事だというのはたしかにあるが、それはそれそのものを大事にすることでよいのではないだろうか。戦争や武力を用いることに大胆にならないようにする。そのためには、できるかぎり戦争や武力の行使に抑制をかける法の決まりによる手つづきを守るようにする。その手つづきをすっ飛ばすことによって、大胆になって、戦争がおきたり、武力の行使がおきたりすることになる。

 平和のためには、血のコストをわがこととしてとらえるのがいるのだといっても、それが徴兵制という外からの圧力によるのにはうなずきづらい。平和というのはのぞましい価値となるものだが、それと共に、自由や自律という価値もある。徴兵制というのは外からの強制によるのでどちらかというと自由を損なうものだし、自律ではなく他律によるものだ。

 平和というのは、世界の平和というのがのぞましいものだから、国というのが絶対化されるのではなくて相対化されるのがのぞましいものだろう。国が相対化されるのがのぞましいのに、国ということの当事者の意識をもつのはどうなのだろうか。国家主義の意識を高めてもしようがないのではないか。それよりも、自由主義による国際協調主義のあり方をとったほうが、戦争や武力の行使によらない平和のあり方を探ることができやすい。

 参照文献 『一三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『憲法が変わっても戦争にならない?』高橋哲哉 斎藤貴男編著