ブログの運営者と、それを見る人と、弁護士との、それぞれの当為(かくあるべき)と実在(かくある)

 ウェブのブログを通して、大量の懲戒請求を弁護士にたいして行なう。弁護士はこれを行なった人たちに訴えをおこしているという。ブログを見ている人たちに懲戒請求をうながしたブログの運営者は、弁護士を訴えるつもりだということだ。

 懲戒請求をして、弁護士から訴えられた人の中には、懲戒請求をしなければよかったと省みている人もいるという。ブログでは懲戒請求をうながしていたが、それにのらなければよかったということだ。

 ブログを見て懲戒請求を行なった人にとって見れば、ブログの運営者は神であり、弁護士はその反対の悪となる。しかし、哲学者のニーチェが言ったとされる神の死がある。神の死があることから、ブログの運営者は神ではなかったのがあとでわかることになる。弁護士もまったくの悪ではなかった。

 そもそも弁護士の活動とは何かを改めて見られる。素人だから表面的な見かたになっているかもしれないが、たとえ極悪の犯罪を犯したとされる人であっても、弁護士はその犯人を弁護するものなのがある。えん罪のおそれが完ぺきには払しょくできない。たとえ極悪の犯罪を犯したとされる人にも人権はある。

 自由主義の社会においては、他者に危害を加えないかぎりは弁護士の活動は自己決定にゆだねられている。弁護士は法の許す範囲において、自分がよしとする判断にもとづいて行動するのがあってよい。自国や自民族をよしとして、特定の他民族をよしとしないようにするべきだというかたよった規範を弁護士に押しつけるのはおかしい。

 法の許す範囲でさまざまな遠近法による色々な活動が行なわれてよいものだろう。自国や自民族をよしとせず、特定の他民族をよしとするように見うけられるからといって、それだけをもってしてその活動が承認されないのは、よくない自民族中心主義(エスノセントリズム)になっている疑いが高い。自国や自民族を脱中心化して、反転可能性の試しをするのがあってよいものだ。

 単純化してしまうことで、複雑な世の中のありようを見あやまることになる。ブログの運営者は、まったくの純粋な善意で懲戒請求を見ている人にうながしたとは言えそうにない。その反対に、少なからぬ悪意からそれをうながしたこともうかがえる。

 弁護士もまた、まったくの善意やまったくの悪意から動いているのではないだろう。そこはどちらかの一方に単純化することはできそうにない。複雑な世の中に生きているために、単純なあり方はとりづらく、複雑なあり方になるのを避けづらい。

 ブログの運営者の言うことは完ぺきに正しくて、弁護士の行なっていることは完ぺきにまちがっている。こうしてしまうと、どちらかが神でどちらかが悪となるが、神の死があるのでこれは成り立つものではない。単純なものとして見るのを避けたほうが無難だ。

 弁護士は、日本人ではない他の民族のためになるようなことをしているからといって、それがまちがったことだとは言えそうにない。近隣の他の民族に利することをしたからといって悪なのではない。他の民族と関わったり、他の民族だったりするのが悪いというのであれば、二分法におちいっている。

 白か黒かの二つだけではなくてもっと色々な視点をもてるのがある。二分法によって、ブログの運営者を神として、弁護士を悪とするのをやめて、ずらすようにできればまちがいを避けやすい。

 二分法による神と悪は比喩にすぎず、この二つは関係によって成り立つ。戦前や戦時中には現人神とされた天皇がじっさいにはただの人だったように、神話によるものである。この神話のあり方を再び呼びおこすのを、いまの与党による政権は行なっている。

 自国である日本がまったく正しいということはないのだから、自国を神として近隣の他国を悪とする二分法で見るのはのぞましくない。ブログの運営者を神として見るのに通じるまちがいを犯すことになる。一方が神で他方は悪とするのは、単純なものであるために言葉のあやであるのが大きい。

 神であるとするものは、その表向きの裏に、都合の悪いものが隠ぺいされていると見られる。まったく中立というわけには行かず、かたよりをまぬがれることはできない。かたよっているのは、力(権力)への意志によっているものだ。

 単純に受けとるとまちがうことになりかねないから、なるべく複雑に見て行くことがいる。価値を単数とするのではなく複数化することができる。単数としないで複数とすることによって、ただ一つの物語をよしとするあやまりを避けやすくなる。

 色々なかたよりに意識して触れるようにすることができれば、どれか一つだけが絶対の正解だとはしないですむ。一つのブログによる単一の物語によるのではなく、複数のちがったブログ(意見)に接することで、大きな物語にはまってしまう危険を多少は和らげられる。

歴史修正主義をとるいまの日本の常識では考えられないことがおきたのはあるかもしれない

 外務相は韓国の駐日大使を外務省に呼んだ。韓国による、戦時中の徴用工についての訴訟判決に関してこう言っている。法の支配が貫徹されている国際社会の常識では考えられないことがおきた。それについて韓国に抗議をした。

 外務相の言っていることは逆ではないか。法の支配が貫徹されていないいまの日本においては考えられないことがおきたと言い換えられる。法の支配が貫徹されている国際社会の常識においては、常識にかなったことがおきた。

 日本は戦時中に、朝鮮の人たちにたいして、植民地の支配を行なった。同化政策を強いた。戦争によって当時の日本人のうちの少なからぬ人たちはいわれなき苦しい経験をした。少数派であった朝鮮の人たちはさらに苦しい目にあったのがある。きつい現場で働かされるなどで、命を失う者も少なくなかったという。

 戦時中のこのいきさつをくみ入れれば、外務相の言っていることは的はずれだ。戦時中に、日本の国内の日本人や、朝鮮や中国などの人にたいして、日本の国ははなはだしい不正義なことを行なった。これを日本に都合よく合理化することはできるものではない。

 法の支配からすれば、日本が戦時中に自国や他国の人に行なった不正義が批判されるのは当然のことだろう。これを外務相は常識では考えられないことだと言うが、そういう見かたをしているのが、いまの日本の社会に閉塞を生んでいることにつながっていると見られる。国際社会の常識に反して、法の支配をないがしろにして軽んじているのはむしろ外務相のほうだ。そして外務相がその一員である、いまの日本の与党による政治もまたそうだということができる。

道義という語で象徴する形で言われても説得性がまったくと言ってよいほど無い

 世界にほこる道義大国を日本は目ざす。与党の議員はそう言っている。じっさいのありさまはどうかというと、いまの与党による日本の政治は、世界にほこれない忖度大国となっている。空気を読まないで和を乱す者に冷や飯を食べさせるのが与党の中で行なわれている。

 道義というのは定義がもうひとつはっきりとはしない。こめられた意味あいが定かではないから、よいか悪いかが何とも言えないものだ。道徳論の教条によるのだと、必ずしもよいものとは見なしづらい。

 ふだん日常で道義という語を用いることは多いとは言えそうにない。口にのぼることは多くはないから、わかったようでわからないのがある。抽象のことを言うことで、煙にまいてごまかすために用いていると見ることができる。

 具体の現実を見てみると、権力をになう政治家は、国会において、ご飯論法や信号無視話法を用いている。道義がよいものだと仮定すると、これに道義があるとは見なすことはできない。道義がなかったり欠けたりすることは、とくに政治においては多く見うけられるが、それがあるというのは目をこらしてもごくわずかに見られるくらいだろう。

 もし日本が道義大国を目ざして、それが行き渡るのをよしとするのであれば、きわめてむずかしいものである。それをいままでに目ざしてきたとは言えそうにないし、悲観的に言えば悪徳が政治においてはとくにはびこってしまっている。政治や社会の中で、まっとうでないものが横行してしまっているのは退廃のあらわれだろう。

中国と協調しようとするのはよいことだが、国外(中国)では弱気ということだとすれば、場面ごとにあり方が恣意で変わってしまっている

 首相は新たな三原則を中国にたいしてとったという。競争から協調、脅威ではなくパートナー、自由で公正な貿易体制の発展、の三つである。

 中国は古くから日本の手本だったと首相は言う。中国は長く日本のお手本だった。漢字や仏教や社会制度や都市づくりが中国から日本に伝わった。

 日本が国としての形を整えるさいに、中国の社会制度がとり入れられたと言われている。中国のほうが進んでいたために、それを模倣したということだろう。

 国内では中国や韓国にきびしく、強気のありかたを首相はとっている。中国を訪れて、それがどこかへ吹き飛んでしまったのだろうか。中国に協調のあり方を示すのは悪いことではないが、国内でのこれまでにとっていた首相の姿勢とは一貫性に欠ける。そこを批判したいのがある。

 中国は大国であり、その大に事(つか)えるという事大主義が首相にはかいま見られる。これは同じ大国であるアメリカに厳しいことを言わず(言えず)に従順なのと同じである。大きいものに弱い。日本の国内でもこのあり方ははびこっている。

 国内では中国や韓国に威勢のよい姿勢を示しているが、いざ中国を訪れると、協調の姿勢を示す。場面がちがうとあり方がちがってしまっている。対立(敵対)もよし、協調もよしといったような一貫性のなさだ。これはつり合いがとれていたり柔軟性があったりするのだとは見なしづらい。ひどくいい加減なのだというしかない。

危ない地域へ自分で行ったことの自己責任と社会的矛盾(世界的矛盾)

 もし町で直接に見かけたら、文句は言いたい。テレビ番組の出演者はそう言っている。文句を言う相手は、中東の紛争地帯で武装勢力に人質になったフリーのジャーナリストである。ジャーナリストは三年ものあいだ拘束されていて、三億円の身代金をかけられたという。

 ジャーナリストにたいして町で会ったら文句を言いたいとのことだが、これは悪いことをしたから文句を言うということだろうか。中東の紛争地帯に取材に行く人は日本の社会の中では少数派だ。正しい多数派がいて、まちがった少数派がいるという図式がかいま見られる。

 なぜまちがった少数派がおきてしまうのだろうか。そこには社会的矛盾(ジレンマ)がはたらいている。その矛盾があるために、ジャーナリストは中東の紛争地帯におもむいたのだととらえられる。そこに行くことの誘因がはたらく。

 少数派に当たるジャーナリストは、誘因がはたらいたことで、中東の紛争地帯に行ったわけだが、それはまちがいなく悪いことだと言い切ることはできるのだろうか。完ぺきに悪いことだと言い切れるものなのか。必ずしもそうだとは言えないのがあり、それについての色々な声が投げかけられている。

 社会の中には、社会的矛盾がおきるのは避けられない。みんなもれなく同一のあり方をとるとは行きづらい。この矛盾は、国際的なことが関わるものであれば、世界の矛盾を映し出しているものでもある。国内における同一のあり方からはみ出たのは悪いことだとして、町で見かけたら文句を言うのではなく、折り合いをつけてみるのを試すのはどうだろうか。国内の多数派は正しく、少数派はまちがっているとは一概には言えず、創造性があるのはえてして少数派であることは少なくない。

くじらの怒り

 アメリカはかつてくじら漁を行なっていた。捕鯨船で、くじらを大量に捕り、絶滅に近いまでに追いこんだことがあるという。

 漁のやり方としては、まず、人間にたいして警戒心のない子どものくじらをねらう。子どものくじらを殺して、心配して近くに寄ってきた親のくじらを殺す。そうしてくじらを捕っていた。

 このくじらのとり方をすることで、くじらは人間にたいして憎しみをもつ。人間が乗った捕鯨船などをおそうようになる。船にしっぽを当てたり頭をぶつけたりして転ぷくさせて人間を海につき落として命を落とす人が出たという。くじらは人間を憎んで船をおそうことから、悪魔の魚と呼ばれるようになった。

 くじらが人間を憎むのはもっともなことである。くじらにおそわれて船を転ぷくされた人は気の毒ではあるが、人間がくじらにたいしてやったことをくみ入れると、くじらが人間にたいして不当なことをやっているとは言えそうにない。それなのに、人間はくじらのことを悪魔の魚と呼ぶのは、人間に都合がよいかたよったとらえ方だ。くじらにとっては人間のほうが悪魔だとなる。

 くじらはもとから人間にたいして敵意をもって憎んでいるのではないという。アメリカはくじらを捕ることをやめることで、時間が経つうちにくじらは人間にたいして憎しみを持つことがなくなり、友好な態度を示すものも中にはいるという。この話は、国どうしの歴史の話にも当てはめてみることができるところが多少はある。

フリーのジャーナリストにたいする動機論の忖度

 極端な話ではあるが、わざと人質になって身代金を折半しようやみたいなやつが出てこないとも限らない。もしくは、そういう参加のしかたをするやつも出てくるかもしれない。もちろん当のジャーナリストは絶対にちがうとは思う。でも、そういうことを考えると、もうこれ以上はやめようねという感じにはしてほしい。

 テレビ番組の出演者はこう言う。中東の紛争地帯で武装勢力に人質にとられて、三年間のあいだ拘束されつづけて、三億円の身代金を支払うことになったとされるフリーのジャーナリストの事件についての話である。

 テレビ番組の出演者は、身代金による商売が行なわれるのを危ぶんでいる。これはわからないではない。危ぶむのはわからなくはないものの、当のフリーのジャーナリストは絶対にちがうというのであれば、身代金をたかる商売とはまったく類似性がないのだから、それを例として持ち出すのはいらないものだろう。

 当のフリーのジャーナリストのことを、疑っているのかそれとも疑っていないのか、はっきりしてほしいものだ。疑っているのならそれはそれで悪いことではなく、疑問としてはあってよいものだから、じっさいにどうなのかを見て行ければよい。

世界や日本の社会には、筋が通っていない不正義なことは色々とあるから、フリーのジャーナリストの行動を叩くのは、ガス抜きにすぎないような気がしないでもない(批判がまったく的外れなのではないだろうが)

 フリーのジャーナリストと言えばネタを売ってそのお金で自分の生活を送る。そうであれば身代金の三億円は自分で支払うのが筋だ。テレビ番組の出演者はそう言っていた。

 番組の共演者は、私もそう思うとして賛成していた。カタールが身代金を支払ったというが、そのせいで外交的にカタールに借りをつくったことになると言っている。

 武装勢力カタール政府は身代金の三億円を支払って、日本のフリーのジャーナリストは解放されたということだが、この三億円は本当に支払われたものかどうかはまだはっきりとはしないものだろう。支払ったと言っているだけかもしれない。

 フリーのジャーナリストは、身代金の三億円を自分で支払うのが筋なのだろうか。これが筋なのだとすれば、身代金の三億円を支払うのを肯定してしまうことになる。犯罪が行なわれるのを肯定することになるから、これはおかしいことだろう。

 危ないところに行っただけなのに、それだけで三億円も支払わなければならないのは、筋が通っているとは言えそうにない。たんに危ないところに行ったのではなく、取材として行っているのだから、遊びに行っているのではない。

 危ないところに自分で行って、三億円を支払わされることに筋が通っているのであれば、そこの地域の危ない現状がそのままになってしまう。ほんらいは、フリーのジャーナリストが現地に行って、人質になって三年間も拘束されて三億円を支払わされるのはあってはならないことだろう。

 たとえ危ないところだからといって、フリーのジャーナリストが人質になって拘束されたり高額の身代金を支払わされたりするのが行なわれるのは正当なことではない。前もってフリーのジャーナリストが身代金に当たる大金を自分で用意したり、あとでその大金を自分で支払ったりするのがまちがいなく必要なのだとは見なせそうにない。

思いやりや気配り(の延長)というよりは、独断や偏見を減らして行くのがいる

 思いやりや気配りの延長として、必要であれば法整備を行なう。予算措置が必要になった場合は、慎重に検証して、総合的に判断して実行すべきとの立場だ。性の少数者の権利について、自由民主党の議員はこうしたことを言っている。

 自民党の議員は、思いやりや気配りの延長というふうにしているが、そういうことではなく、少数者の権利は重く受けとめられなければならないものだろう。権利が認められていないのは改められることがいる。

 少数者の権利にたいする要求は、社会の中でそうとうに重きが置かれることがいる。かなり重要性の高い要求だ。ていねいに聞き入れられることがいるものである。うったえの中身を受けとめるようにして行く。少数者を排斥するのではなく、社会の中で包摂するようにして、承認することができればよい。

恥ずかしながら、として本人が謝りたいとすれば、それがあってもよいとは思うが、外から押しつけるのはどうだろうか

 中東の紛争地で、武装勢力に人質として三年間のあいだ拘束されていた日本人の記者が解放された。そこでこんなことがツイッターのツイートでは言われている。日本に帰ってくるときは、定番の作法を守ってほしいという。記者はまず、恥ずかしながら、と謝りなさい、としている。

 記者は日本に向けて、恥ずかしながら、と謝ることはいるのだろうか。恥ずかしながら、と謝るのがいるとするのは、それがあってもよいのはあるものの、形式主義なのではないだろうか。形式として言ったからといって、実質がこもっているかはわからないのだから、そこまで意味があることではないだろう。

 記者にたいして、恥ずかしながらと謝るのを定番の作法だとして、それをやるのがよいとさせるのは、規範の押しつけになる。この規範は、日本の国内における一部の人(少なからぬ人)はよしとするものかもしれないが、そうだからといってそれが正しいことだとは必ずしも言うことはできそうにない。

 中東で武装勢力に拘束されていた記者は、世界を知っている人だろう。自分の足で世界に出ていって、色々なことを見たり聞いたりしている。その記者が自分で判断することを尊重するのがあってよい。

 形式として、恥ずかしながらと謝る定番の作法を守るような人は、日本の世間の空気を読む人ではあるが、悪く言えば小さくまとまってしまっている。空気を読まないで外に向かってはみ出るような人ではない。

 日本の中の空気を読むのをもっとも優先していたら、世界に出ずに日本の国内にずっととどまっているはずだ。世界に出て活動する記者にそれを求めるのは無理があるのではないか。世界に出て記者として活動するという時点で、日本のあり方や空気を相対化することにならざるをえない。日本のあり方を相対化するのは決して悪いことではない。日本というのは世界の中における一つの部分にすぎないから、それよりも世界のほうが重要だという見かたは成り立つ。