道義という語で象徴する形で言われても説得性がまったくと言ってよいほど無い

 世界にほこる道義大国を日本は目ざす。与党の議員はそう言っている。じっさいのありさまはどうかというと、いまの与党による日本の政治は、世界にほこれない忖度大国となっている。空気を読まないで和を乱す者に冷や飯を食べさせるのが与党の中で行なわれている。

 道義というのは定義がもうひとつはっきりとはしない。こめられた意味あいが定かではないから、よいか悪いかが何とも言えないものだ。道徳論の教条によるのだと、必ずしもよいものとは見なしづらい。

 ふだん日常で道義という語を用いることは多いとは言えそうにない。口にのぼることは多くはないから、わかったようでわからないのがある。抽象のことを言うことで、煙にまいてごまかすために用いていると見ることができる。

 具体の現実を見てみると、権力をになう政治家は、国会において、ご飯論法や信号無視話法を用いている。道義がよいものだと仮定すると、これに道義があるとは見なすことはできない。道義がなかったり欠けたりすることは、とくに政治においては多く見うけられるが、それがあるというのは目をこらしてもごくわずかに見られるくらいだろう。

 もし日本が道義大国を目ざして、それが行き渡るのをよしとするのであれば、きわめてむずかしいものである。それをいままでに目ざしてきたとは言えそうにないし、悲観的に言えば悪徳が政治においてはとくにはびこってしまっている。政治や社会の中で、まっとうでないものが横行してしまっているのは退廃のあらわれだろう。