選択の夫婦の別姓にすることによって失われる家族の一体感とは何なのだろうか―家族のもつ危険性

 夫婦が別姓になることを選択できる。別姓になることを選択できるようになったら日本の家族の一体感が失なわれてしまう。日本の家族が壊れてしまう。そう言われるのがあるが、それは当たっているのだろうか。

 強制の夫婦の同姓によってかりに家族の一体感がおきるのだとしても、その一体感は保たれつづけるよりもむしろ壊れたほうがよいのではないだろうか。

 強制の夫婦の同姓は、男性と女性が対等なのではなくて、女性にだけ強く参与(commitment)を強いる仕組みになっている。女性が夫婦や家族の関係から離脱しづらくしているのがあり、きびしく言えばそこに正当性があるとは言えそうにない。正当性があるとは言えないところがあるので、そこからおきることになる家族の一体感があるのだとしても、それはむしろ壊れてしまったほうがよい。そう見なすことがなりたつ。

 家族とは、必ずしもよいものではない。家族はどちらかといえば小さい集団であり、小さい集団は危険性をもつことがある。小さい集団は閉鎖性をもつことがあるので、そのなかでぜい弱性や可傷性(vulnerability)をもつ人が標的にされて暴力をふるわれる。おもに女性や子どもなどが標的にされて暴力をふるわれやすい。損をこうむりやすい。そこを救い出すことがいる。

 理想論としては家族は安らぎを得られるところであるべきだが、現実論としてはそうではないことが少なくない。家族の中は危険性が高い。ひどいときには殺人がおきることがある。そこまで行かなくても、家族の中は危険な場所なので、個人が幸福を得ることから逆行してしまうことがしばしばある。

 家族すなわちよいとはいえないのがあるから、そこに一体感があることは必ずしもよくはたらくとはいえず、悪くはたらくことがある。それが悪くはたらくこととして、戦前や戦時中においては、日本の国をひとつの家族だと見なしていたのがある。天皇制で天皇を父親だとしていたのである。これは父権主義(paternalism)のまちがったあり方であるのにほかならない。

 個人ができるだけ幸福になりやすいようにするために、家族によって損をこうむらないようにして行く。家族によって個人が不幸におちいらないようにして行く。家族の中でとりわけぜい弱性や可傷性をもつ弱者が暴力を受けづらいようにして行く。

 安全性があって、そこから安らぎを得られるとはいえないところがあるのが家族である。危険性が高いことがある。それをくみ入れるようにして、家族がひとつの全体になって全体化されないようにして、脱全体化されるようにしたい。家族のためといったことであるよりも、一人ひとりの個人に焦点を当てるようにして、一人ひとりの個人が尊重されるようであればよい。

 選択で別姓を選べるようにできたほうが、強制ではないようにできるのでよりよいものだと見なすことがなりたつ。日本では選択することがよしとされづらく、強制がよしとされやすい。選択の自由が否定されやすくて、強制による選択の不自由がよしとされやすい。強制の夫婦の同姓は、選択の不自由となっているものだろう。

 とにかくそうなっているのだからそれを受け入れるしかないといったような既成事実にたいして弱いところがあるのが日本の国のあり方だが、それがあらわれ出ているのが強制の夫婦の同姓だろう。既成事実が重みをもつのがあり、その慣習の他律(heteronomy)のあり方を見直す機会を持つようにして、自律(autonomy)によって反省することがあったらよい。

 参照文献 『家族はなぜうまくいかないのか 論理的思考で考える』中島隆信 『家族依存のパラドクス オープン・カウンセリングの現場から』斎藤学(さとる) 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『絶対幸福主義』浅田次郎