中国のウイグルのことと、総論と各論と、硬派と軟派の四つの点

 中国のウイグルでは人権の侵害が行なわれているという。そのことにたいして声をあげて行く。その動きが日本の国会でもとられ出している。

 日本の国内にはさまざまな人権の侵害がある。それらに声をあげることよりもより優先されるものとして、中国のウイグルのことがある。そうしたことがツイッターのツイートなどで言われているのがあるが、それはふさわしいことなのだろうか。日本の国内にあるさまざまな政治のことがらよりもより優先されるものとして、中国のウイグルのことがとり上げられるべきなのだろうか。

 総論と各論と、硬派と軟派の四つの点から見てみられるとすると、まずは、総論と各論とによって見てみられる。世界のさまざまなところでおきてしまっている人権の侵害は、それらをぜんぶひっくるめると総論に当たる。そのうちで、中国のウイグルのことは各論に当たるものだろう。

 総論の中にはさまざまな各論があるといえるとすると、それらのうちのどの各論をとり上げるのかは、個人の選択によることになる。個人がどのようなものを選択するのかは個人の自由であり、その自由があることが政治においては大切だ。政治において個人に自由が保障されていることは個人が政治の活動を行なうもとになるものだろう。

 各論のうちのひとつとしてあるのが中国のウイグルのことだとすると、そのことを各論として選択してとり上げるのかどうかは、あくまでも個人の自己決定権にゆだねられているものだろう。かりに、各論として中国のウイグルのことをとり上げるのが正しいことであるのだとしても、それをとり上げないこともまた許されてよいことになる。

 中国のウイグルのことをとり上げないのは、その人の愚かさ(賢くなさ)を示しているのだとは言えるかもしれないが、だからといってそれが許されないことだとは言えそうにない。それが許されないことだとはしづらいのは、それがあくまでも個人の自己決定権にゆだねられていることに当たるからである。だれしもが完ぺきな賢さをもっているとはいえないのがあり、どこかの点を見てみれば愚かさをもっているものだから、多かれ少なかれみんな愚かだと言うことが言えなくはない。それぞれの人のもつ愚かさは、自己決定権にゆだねられていることからきているものだから、それが許されるほうがよい。自由主義(liberalism)からするとそう見なせる。

 品詞によって見てみられるとすると、中国のウイグルのことは名詞に当たる。名詞を硬派なものだと言えるとすると、それよりも柔らかいものとして形容詞がある。名詞を形容詞にするのは軟派なことに当たるとすると、中国のウイグルのことを、硬派なものから軟派なものにしてみることができる。

 柔らかい軟派なものとして見てみられるとすると、中国のウイグルのことは、それ的なものだといったことになる。それ的なものとは、それのようなもののことだ。それに類するものである。そのように名詞を形容詞化してみると、量を拡大化することがなりたつ。

 何々のようなものにしてみて、量を拡大化させてみると、中国のウイグルのことを一般化することができるから、そうすると人権の侵害をとり上げることができる。人権が侵害されていることは、世界の中でさまざまにおきてしまっていることだから、それらのうちのどれか一つをとり上げるだけであったのだとしても、間接には中国のウイグルのことをとり上げることにつながるところがあるかもしれない。

 中国のウイグルのことをとり上げるのか、それともとり上げないのかといったことだと、一か〇かや白か黒かの二分法のあり方になる。それは硬派なあり方だ。硬派なものを柔らかくして軟派なものにすることができるとすると、中間の灰色のところをとり上げることがなりたつ。中国のウイグルのことそのものではないが、それのようなものといったことで、量を拡大化することができるとすると、広く人権の侵害についてをとり上げることが許容されることになる。拡大化された量のうちのひとつに当てはまることになるから、許容される範囲の中にあるもののひとつに当てはめられるだろう。

 参照文献 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『現代倫理学入門』加藤尚武 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』森博嗣(ひろし)