アメリカのドナルド・トランプ大統領が大統領選挙で負けを認めようとしないことと、政治と政治ならざるもの

 いぜんとしてアメリカのドナルド・トランプ大統領は、大統領選挙で自分が負けた結果を受け入れていないらしい。大統領選挙で不正があったのだから自分は負けたのではないのだとしているようだ。

 野球の野村克也監督は、負けに不思議の負けなしと言っている。これをトランプ大統領に聞かせてあげたい。勝ちがあれば負けがあるものだし、勝つことよりもむしろ負けることからのほうがそこからいろいろに自分が学ぶことができる。負けたほうが自分のためになる。痛みなくして得るものなし(no pain no gain)だ。負けおしみではあるかもしれないがそういったこともいえるだろう。ことわざでは負けるが勝ち(stoop to conquer)といったこともいわれている。

 大統領選挙の負けの結果を認めようとしないトランプ大統領のふるまいについてどのように見なすことができるだろうか。それについては人それぞれによっていろいろに見なせるのにちがいない。その中で政治と政治ならざるものとに分けて見てみられる。それで見られるとするとトランプ大統領のふるまいは政治ならざるものに転落してしまっているところがある。

 理想論と現実論に分けて見られるとすると、理想論としては何の制約もない中で政治をなして行きたい。それが理想ではあるが、現実論として見ると現実においてはさまざまな制約がおきてくる。その制約がある中で政治をなして行くしかない。制約の外に超え出ようとすると、政治ならざるものに転落してしまう。

 法学者のハンス・ケルゼン氏は、民主主義は政治における相対主義の表現であると言っているという。このことが意味することとして、理想論とはちがい、現実論においては現実にはさまざまな制約があることをあらわす。だからその制約の中で政治をなして行く。制約の外に超え出ようとしてしまうと、理想論をとることになり、政治ならざるものになる。絶対主義になる。

 トランプ大統領が言っているようにほんとうにアメリカの大統領選挙で不正があったのならよくないことではあるが、そのことが閉じた教義(dogma、assumption)となってしまうと政治ならざるものとなり絶対主義になる。現実論による制約がかかった現実の政治を超え出てしまい、その外に出ることになり、宗教の真実のようなものを追い求めることにつながる。

 現実論による制約がかかった現実の政治の中に踏みとどまりつづけるためには、宗教の直接の真実のようなものを追い求めようとはしないことがいる。それは制約の外にあるものだと言えるから、それは人間の合理性のおよばないところにあるものだともいえる。人間には合理性の限界があるから、まったくまちがうことがない無びゅう性によることはできず、可びゅう性をもつ。

 ほんとうの真実は何かといったようなことを追い求めてしまうと、政治から政治ならざるものに転落してしまうことがおきるのがあり、そうはならないようにしたい。政治をやっているつもりであったとしても、それが政治ならざるものにいつのまにか横すべりして行く。政治をやっているつもりであったとしても、政治ではないものをやってしまう。宗教の活動のようなことをすることになる。

 開かれた民主主義によるのではなくて、独裁主義になっていると、政治をやっているとはいえず、政治ならざるものをやっているのだと見なせる。きびしく言えばそう言うことができるだろう。民主主義は必ずしも効率がよいものだとはいえず、現実の制約がいろいろにかかっていて、めんどうなやり取りをやることが避けられない。過程を重んじることがいる。

 日本の政治では、きびしく見れば政治ではなくて政治ならざるものをやっているところがある。民主主義は効率が悪くてめんどうだといったことで、与党である自由民主党はとちゅうの過程をすっ飛ばしていることが多い。結果さえ出ればよいのだとなってしまっている。非効率でめんどうなとちゅうの過程に何の意味があるのかといったことで、そんなものは邪魔くさいのだとしている。邪魔なものはとっぱらってしまえといったことで、効率を第一に優先している。そのことによって適正さをいちじるしく欠いている。

 理想論としては社会の中のすべての人々がみな同じたった一つだけの考え方をもつ。それであればものごとは楽だ。それとはちがい現実論における現実の社会の中にはさまざまな考え方の人がいて、さまざまな遠近法(perspective)をもつ。その中で政治をなして行くのであればさまざまな制約がかかってこざるをえない。さまざまな制約をとっぱらってしまうことはできづらい。

 あくまでも現実論においていろいろな制約がかかった中で現実の政治をなして行く。そのことの欠点としては、弱気や弱腰に映ったり、ものごとが遅々として進まなかったり、わかりづらかったり、ものごとがすっきりときれいに割り切れなかったりする。それらの欠点があることはたしかであり、その欠点をなくしてしまおうとすると、政治から政治ならざるものに転落することがおきてくる。

 現実の政治にはいろいろな欠点があるのはまぬがれそうにない。そこにむずかしさがあるのはたしかであり、かつての第二次世界大戦の前には、法学者のカール・シュミット氏はまどろっこしい現実の議会のやり取りによる政治のあり方をきびしく批判して否定した。決断主義によって決断することが政治においてもっとも大事なことだとした。平時はともかくとして非常時にはそれがもっとも大事だ。

 カール・シュミット氏が言ったことによってナチス・ドイツの独裁主義をあと押しすることになった。それでナチス・ドイツユダヤ人にたいしてせん滅を行ない、国としてまちがった方向につっ走って行った。それの意味するところとしては、たとえ現実の政治がまどろっこしくてめんどうで非効率なようであったとしても、それにまったく意味がないとはいえず、そこを無くしてしまうとかえって政治ならざるものに横すべりしていってしまう。そういったまずさがあるとすると、それを避けるようにしたい。

 参照文献 『一冊でわかる デモクラシー a very short introduction』バーナード・クリック 添谷育志(そえややすゆき)、金田(かなだ)耕一訳 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ)