アメリカの大統領選挙で不正があったのかどうかと反形而上学と反証主義

 アメリカの大統領選挙で不正があった。選挙は不正なものだった。アメリカのドナルド・トランプ大統領はそう言っているが、そのことについてをどのように見なすことができるだろうか。それについてを現代思想でいわれる反形而上学と学者のカール・ポパー氏のいう反証主義によって見てみたい。

 まちがいなく大統領選挙で不正があったのだとして、選挙は不正だったのだとしてしまうと、形而上学(metaphysics)として見なすことになる。大統領選挙つまり不正だったといったふうに見なす。不正であるものだとして基礎づける。そういったようにしたて上げる。はたしてそれができるのかといえば、それはできづらい。

 反形而上学によって見てみられるとすると、アメリカの大統領選挙でまちがいなく不正が行なわれたかどうかには疑問符がつく。選挙が不正だったのかどうかははっきりとは断定することはできづらい。選挙つまり不正だったのだとして基礎づけたりしたて上げたりすることはできづらいだろう。

 カール・ポパー氏による反証主義アメリカの大統領選挙についてを見てみられるとすると、選挙が適正で公正に行なわれたのかどうかの問題がある。その問題についてどういった見なし方をするのかがあり、その中の一つとしてトランプ大統領が言っているようにまちがいなく不正があったのだとする見なし方がなりたつ。

 どういった見なし方をするのであったとしても、それは他からの批判に開かれていることが必要だ。批判に開かれていないで閉じてしまうことになるのが、陰謀理論をいたずらに持ち出したり、修辞学でいわれる人にうったえる議論に持ちこんだりすることだ。人にうったえる議論は、たとえば右派と左派があるとして、右派の言っていることは正しいが左派の言っていることはまちがっているなどとするものだ。言っている発言の内容ではなくて、言っている人(発言者)がどうかによってよし悪しを決めつける。

 それぞれの人が問題についてどういった見なし方をするのであってもそれぞれの人の自由に任されている。その中でトランプ大統領アメリカの大統領選挙でまちがいなく不正があったのだと見なしているが、それはアメリカの大統領選挙がどうだったのかといった問題において、その問題をとらえるさいのとらえ方のうちの一つであるのにすぎない。

 アメリカの大統領選挙の問題についてたとえどういった見なし方をするのであったとしても、そこで大切になってくるのは、たった一つだけの正しい見なし方が絶対的にあるのだとしてしまわないことにあるのではないだろうか。そのようにたった一つだけの絶対的に正しい見なし方があるのだとしてしまうと、他からの批判に開かれていないことになり、反証主義にそぐわない。

 反証主義では一つの問題についてたとえどのような見なし方をするのであったとしても他からのきびしい批判にさらされることが求められて、他からの批判に開かれていることが求められる。そうであることによって、問題を見なすさいの見なし方の中に含まれているまちがいが見つかる機会が得られる。その機会があることによって見なし方の中に含まれているまちがいが修正されることにつながって行く。それまでよりもより新しい問題のとらえ方や立て方につながって行く。

 神のような完全な合理性をそなえているのではないのが人間だ。合理性に限界を抱えているのが人間なので、一つの問題をどのように見なすのかにおいて、こうだとする見なし方をとるのだとしても、そこにまちがいが含まれていることがある。そのまちがいがそのままになってしまっていて見つけられないままになっていると、修正されることがなくなる。修正するための機会を得られない。それでそのまま信念が補強されつづけて行く。

 政治とは論争だと言われているのがあり、それはアメリカの大統領選挙の問題についても当てはまるものだろう。信念として大統領選挙でまちがいなく不正があったのだとしているのがトランプ大統領だろうが、そこをゆずるようにして、論争として他に開かれたかたちで問題を見て行く。そうして行くことによって、選挙は不正だったとする教義(dogma、assumption)が修正される機会が得られる。

 西洋の弁証法では正と反と合があるとされるが、教義になっていると正つまり合となってしまう。正にたいして反をとるようにして、他からの批判に開かれるようにしたい。正としているものがそのまま合にいたるのではなくて、正としているものの中にはいくつものまちがいが含まれていることがある。正としているものそのものがまちがっていることがある。

 たとえ正とされていることであったとしてもそのまま合となるとはかぎらず、よくよくしっかりと見てみれば正としているものの中に色々なまちがいがあって、それに気がついていなかっただけだったといったことはしばしばある。ついうっかりしていることがある。遮へい物となるフタでおおわれているおおい(cover)をとり除いていろいろな穴を見つけて行くためには反となるものが欠かせない。すぐさま正つまり合としてしまわずに反となるものをとるようにすることは科学のゆとりをもつことだろう。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司反証主義』小河原(こがわら)誠 『政治学入門』内田満(みつる) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ)