日本学術会議の人を選ぶ選びかたをどうするのかを個別論と一般論で見てみたい―日本の社会は抽象的な一般論が行なわれづらい

 会の中には旧帝国大学の出身者が多い。私立大学の所属の人が少ない。日本学術会議の中にはそれが見うけられるのがよくない。与党である自由民主党菅義偉首相はそう言っている。

 菅首相がいうように、会の中に旧帝大の出身の人の割り合いが多いのはよくないことなのだろうか。私大に属している人の割り合いが多いほうがよいのだろうか。どこまでが許容できることでどこまでが許容できないことなのだろうか。

 個別論と一般論に分けて見られるとすると、菅首相の言っていることは個別論にかたよりすぎている。そうであるために、日本学術会議のあり方だけを単体でとり上げることになってしまっている。

 菅首相は個別論にかたよりすぎているために、視野が狭窄していて、日本学術会議のことだけをやり玉にあげてしまっている。それだけをやり玉にあげてしまっていることによって、ではほかの集団や組織はどうなのだといったことが見えなくなってしまっている。

 一般論で見るようにして、一般として日本の社会の中における集団や組織のあり方としてどういったあり方がのぞましいと言えるのかを見るようにして行きたい。一般論が欠けた中で個別論を言っても、ある個別の集団のおかしさを言うだけにとどまり、ほかの集団や組織はどうなのだといったことがとり落とされることになる。

 ある個別のことで言えることなのであれば、それ以外の多くの集団や組織にもまた同じことが言えなければならない。そうでないと同じものについては同じあつかいをすることがいるものである正義の原則に反する。

 正義の原則に反したことをしてしまっているのが菅首相の言っていることであり、それがおきているのは菅首相が個別論にかたよりすぎているからだろう。一般論で見て行く視点がとれていない。日本学術会議は個別の会だが、それだけではなくて日本の社会の中にはいろいろな集団や組織がいっぱいあるのだから、それらを漏れなくだぶりなくくまなく見て行く。MECE(相互性 mutually、重複しない exclusive、全体性 collectively、漏れなし exhaustive)である。

 MECE で漏れなくだぶりなくくまなく見て行くことをせずにたんに日本学術会議の個別のことだけをとり上げるのであれば、個別論にとどまることになり、一般論がとり落とされてしまう。木を見て森を見ずといったことになってくる。

 日本の社会では具体の個別の木をやり玉にあげることは行なわれやすいが、それを抽象して一般化して全体を構造としてとらえて行こうとすることが苦手なのがいなめない。具体の個別の木のことではなくて、森の構造の問題をとらえることが行なわれづらい。なにかその時点において弱みがあり標的にされていて可傷性(vulnerability)をもつ具体の個別の木(日本学術会議など)を見つけていってそれを排除してこと足れりとなるのではあまり意味がない。政治の権力の虚偽意識が強まりはするとしてもそれへの批判が欠けたままになる。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『リベラルアーツの学び方』瀬木比呂志(せぎひろし) 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫現代思想を読む事典』今村仁司