国の財政と、理性と反省―死の恐怖がないと理性や反省によることはなかなかできづらい

 国の財政についてを自動車になぞらえられるとすればどういったことが言えるだろうか。さまざまなことが言えるとして、そこで言えるかもしれないことは、加速が強まりやすいが減速や抑制がききづらいことだ。

 国の財政を自動車になぞらえたさいの加速とは国の借金をどんどん積み重ねて行くことであり、減速とは借金をしないことだ。減速や抑制をして借金を減らしていってなくして行く。

 加速をせよとは言われるが、減速をせよとは言われづらい。ここに国の財政がおちいりやすい問題があるのだと見られる。加速にたいしての動機づけや誘因(incentive)や誘惑ははたらきやすいが、減速にたいしての動機づけはもちづらい。

 哲学者のトマス・ホッブズ氏は、暴力などによる死の恐怖によってはじめて人間は理性による反省ができるようになるとしている。死の恐怖にまで行きつかないことには人間はなかなか理性や反省によることができづらい。目が覚めづらく、まどろみにおちいりつづけることになる。

 国においての死の恐怖とは戦争になって敗戦することがあげられる。戦争で敗戦することによってやっと国家主義(nationalism)による酔いから一時的にせよ覚められて、その時点において理性や反省がなりたつ。その理性や反省は持続性がないために、たやすく忘れられてしまいやすい。ことわざでいうのど元すぎれば熱さ忘れるとなり、国家主義の酔いがすぐに大きく出てきてしまう。

 国家主義の酔いは共同幻想(想像の共同体)によるもので、集団になると(個人であるときよりも)しばしば人は狂いやすい。もともと人は多かれ少なかれ狂っている(ホモ・デメンス homo demens)のがあり、それが増幅されることがある。

 人がもつ狂いをトマス・ホッブズ氏は自己欺まんの自尊心(vain glory)や虚栄心としていて、人は放っておくと自然状態(戦争状態 natural state)においてその虚栄心に大きくかり立てられて互いが互いにたいしておおかみになり、終わりなき殺し合いになる。万人の万人にたいする闘争が引きつづく。お互いが自己保存(自己愛)を第一にすることによる。それをのりこえるために社会状態(civil state)をなすことがいるとされる。人どうしがおたがいに敵対し合い殺し合うことの弁証法による正と反と合の止揚(アウフヘーベン aufheben)が社会状態だ。性悪説による見なし方だ。

 国の財政において死の恐怖は、財政の破綻や超物価高(hyperinflation)がそれにあたるとすると、それがおきたときにはじめて理性や反省によることができることになる。それがおきないうちはなかなか理性や反省によることができづらく、加速が強まりやすく、減速ができづらい。

 国が戦争で敗戦したときや国の財政が破綻したときに、そのすぐあとのころに法の決まりがつくられた。それが憲法や財政法だろう。戦争で敗戦したときや財政が破綻したときは、死の恐怖が生々しくおきているから、一時的に理性や反省によることができやすいために、それが生かされる形で法の決まりがつくられて、死の恐怖が内容に盛りこまれる。独立性がとられている形での中央銀行の役割にもそれが見られる。いまの日本の中央銀行は政府によって独立性が骨抜きにされているようだが。

 財政の破綻や超物価高はおきるはずはないとするのは、神風の神話のようなものなのではないだろうか。神風が吹くのだとすれば財政の破綻や超物価高はおきないだろうが、まちがいなく神風が吹くとは言い切れそうにない。神風が吹かない可能性もまたあるだろう。

 国の財政をどのように見なすのかについてはいろいろな見なし方があるから、楽観論から悲観論まであり、どれが正しいのかは定かとは言えそうにない。国が借金をすることはいけないことだとは決めつけてはいけないが、借金をすることにたいする動機づけは強まりやすいが、それをしないで借金を返してなくして行くことへの動機づけはあまりもちづらい。それは死の恐怖がないかぎり、なかなか理性や反省によることができづらいことと関わっているのだと見られる。

 経済がうまく行っているときには利益をばらまく利益分配政治ができるが、うまく行っていないときには不利益をどのように分配するのかの不利益分配政治となる。利益分配政治ではなくて不利益分配政治をすることが避けられなくなっているのは、国の財政の有限性による制約条件があるからだ。それが有限ではなくて無限だとして制約条件がまったくないとするのは理想論としては言えるかもしれないが現実論からするとうなずきづらい。

 制約条件をとり外してしまうのは、たとえば人間が自力で空を飛ぼうとするために努力をすることがあげられる。制約条件をまったく抜きにすることによって、人間が自力で空を飛ぼうと努力をすることが目ざされる。そこに現実の制約条件をくみ入れるようにすれば、自力で空を飛ぼうとする努力には意味がなくなる。制約条件の内ではなくてその外で努力するのは、現実としてかないづらい努力だから、合理性が無いか低い。

 有限性による制約条件がある中でどのような負担と給付を行なって行って、借金をどのように減らしてなくして行くのかを探っていったほうが現実論にはかないやすい。自動車でいうと、おろそかにされがちな減速や抑制のほうを重く見ていったほうが理性の反省ができやすいが、それよりも加速による理想論をとるほうが耳にはここちよく響くのがある。理想論が絶対にまちがっているとは言い切れないが、そこでは理性の反省が行なわれづらい欠点がある。

 参照文献 『赤字財政の罠 経済再発展への構造改革』水谷研治(けんじ) 『トランスモダンの作法』今村仁司他 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『現代思想を読む事典』今村仁司