首相や政権はがんばっているから、それでよいのだろうか

 首相はよくがんばっている。だから首相や政権のことを悪く言うべきではない。批判をするのは無駄だ。やらないほうがよい。そうしたことが言われている。

 海外では、社会の底辺またはじっさいの現場の前線で働いている人たちこそが、社会を支えているのだということで、そうした人たちに照明を当てたテレビ番組が放映されているという。

 首相というのは基本として照明が当たりやすい。目だちやすい。それとはちがい、社会の底辺やじっさいの現場の前線で働いている人たちにはあまり照明が当てられづらい。このちがいは、目だちやすいか目だちづらいかで、ハイ・プロファイルかロー・プロファイルかのちがいだ。

 目だっていて照明が当たりやすいから重要なのだとは言い切れそうにない。目だちづらくて照明が当てられていないから重要ではないのだとは言い切れない。その二つは必ずしも相関するものだとは言えないのがある。目だっているけど駄目だというふうに、逆のことも少なくない。もしもこの二つが完全に相関しているとすれば、テレビ番組でいえば、視聴率が高ければ高いほど番組の質が高いことになるが、現実はそういうわけではないだろう。

 がんばっているかどうかの点では、首相や政権ではなくて、海外でやっているテレビ番組のように、社会の底辺やじっさいの現場の前線の人たちのがんばりに照明が当てられるべきだろう。そこのがんばりが、分かち合いになっていなくて、分散していなくて、しわ寄せが行きすぎていたり不当なあつかいになっていたりすることは少なくない。

 首相や政権については、がんばっているところではなくて、その逆にがんばれていないところをさし示すのであれば意味がある。どこがどうがんばれていないかや、どこがどうできていないかである。がんばれているところやできているところは、理想と現実のずれが少ないところなのだから、そこではなくて、理想と現実とがずれているところを見つけて行って、そこを改めることができればよい。

 個人ががんばることが追いこむことになって犠牲を生んではいけないから、上にも下にも犠牲が出ないことが理想だ。上にもがんばっている人がいるのはまちがいがないから、そこの負担が非人間的なほどに大きくなるのはのぞましいことではない。その点については、上と下において、だれに可傷性やぜい弱性がおきやすいのかがあり、負担が大きくなっていることへの救いや手当てが行なわれれば多少は犠牲を避けやすい。