新型コロナウイルスへの感染の対策と、政府の賢さ―賢いか愚かか

 新型コロナウイルスへの感染が日本の社会の中でおきてきている。この中で意味をもってくるのが時の政治の権力が賢いかどうかである。

 政府が賢いのであれば理想である。ふさわしい手だてを色々に打って行くことが見こめるのでそこまで大きな心配はいらない。

 賢くても愚かでもまがりなりにも政府は政府であるという見かたもできなくはないが、政府が賢くないのであれば、理想となるあり方からどんどん引き下がっていってしまう。

 料理でいうと、それを範ちゅうとして見れば、おいしくてもまずくても料理は料理だ。味を抜きにするのではなくて、おいしいかまずいかを見るのであれば価値による。範ちゅうだけではなくて価値によって見て行くことができる。料理店で客にとんでもなくまずいものを出したら店としては失敗であり失格だ。

 政府が賢くないのであれば、理想からどんどん引き下がっていってしまい、理想と現実とのあいだのずれが大きくなってくる。そのずれの大きさが無視できないくらいのものになると見すごすことはできなくなる。

 政府が賢いのかどうかをきちんと見定めるようにして、賢くなくて愚かなのであれば批判を投げかけて行くことがあったほうが、多少の歯止めをかけることになるのは見こめるかもしれない。

 完ぺきに政府が賢いのだとすれば点数で言えば一〇〇点だが、それは神の領域といってもよいものだから、そこから点数が差し引かれることになる。人間はまちがいをおかすことを避けられないから、一〇〇点の満点ということはなく、どこかにまちがいはあることが少なくないし、どこかに愚かさがあるものだろう。

 一〇〇点というほどであれば天才だと言えるが、天才といえるほどに政府が賢いとは言うことはできそうにない。人間であればどこかに抜かりがあるものである。何から何まで非の打ちどころのないことはありえづらいから、落ち度があることはまぬがれない。

 一〇〇点ではなく七〇点、もっと低くて五〇点、三〇点、ひどいと〇点に近い。マイナスということもないではない。色々な文脈によって見ることができるから、きびしく見れば〇点に近いということもないではない。それだととても愚かということになるだろう。

 まさか現実に政府が〇点に近いことはないだろうということで、そこまで愚かではないだろうと見なすことはできるが、一つの文脈としてはそれはありえないではないのではないだろうか。まさかというのがよい意味あいではなくてよくない意味あいでおきることがある。ことわざでは弘法も筆の誤りとかさるも木から落ちるというのがあるから、小さくないまちがいをしでかすことはおきかねないことだ。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『日本の危機 私たちは何をしなければならないのか』正村公宏(まさむらきみひろ) 『女ざかり』丸谷才一