環境の問題に見られる、日本のあり方と西洋のあり方―集団主義と個人主義

 まだ子どもなのだから、大人たちを批判するべきではない。大人たちにきびしいことを言わないほうがよい。それよりも、すべての世代を巻きこめるような手だてを探ったほうがよほどよい。日本の環境大臣は、環境のことについてそう言っていた。

 この発言は、スウェーデンの環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏のことをとがめたものだととらえられる。環境大臣のこの発言には、日本の文化に見られる、でこぼこなものや凹凸のあるものを平べったくして平坦なものにするあり方が見てとれる。

 角が立たないように丸くおさめて、ことを荒だてないようにして、その中でよりよいようにして行く。環境大臣はそうしたあり方をよしとしている。それはそれで一〇〇パーセントまちがったものだとは言えないが、いかにも日本ふうの波風を立てないやり方だろう。そうではなくて、あえて角を立てるようにするというか、闘争して行くということもときにはいることだろう。

 闘争というのはきらわれるものではあるかもしれないが、人間がかかえる避けがたい現実の条件だ。矛盾や対立の形で現実にあらわされる。一丸となった無矛盾な集団というのは基本としては現実にはありえない。最小の二人からなる集団である夫婦なんかでも、おうおうにしてなかなかぴったりと息を合わせるのは難しい。

 日本ふうのやり方だと、闘争を避けて調整して行くのがよしとされる。静態でかつ集団主義だ。それに比べて西洋では動態によっていて、感情(パトス)と理屈(ロゴス)をいかんなく表にあらわして行く。個人主義だ。この分け方は図式的にすぎるかもしれないが、環境大臣の発言を受けて、そうしたところがあるようにとらえられる。

 すべての世代を平坦にならすことができるのかといえば、そうとは言い切れそうにはない。というのも、環境の問題については階層における不平等があるのは否定できないのではないだろうか。若い世代ほど、または将来の世代ほど割りを食う。環境の問題の被害をとくにこうむりやすい地域もあるだろう。そうであるとすれば、若い世代ほど、または被害を受けやすい地域ほど、怒ってもよいのではないだろうか。

 参照文献 『「電車男」は誰なのか “ネタ化”するコミュニケーション』鈴木淳史(あつふみ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫