あんたは日本人か、というさいの日本人を、質と量から見てみる―日本や日本人の内包(質)と外延(量)

 あんたは日本人か。愛国的ではないことに税金を使っているということで、役所に抗議の声が寄せられたさいに発せられた文句だという。

 質問には、たんに情報を知りたいものと、すでに答えが決まっていてそれを押しつけるものとがあるとされる。あんたは日本人かというのは、たんに情報を知りたいのではないだろうから、すでに答えが決まっていてそれを押しつけるものである修辞疑問だと見なせる。

 あんたは日本人かというさいの日本人というのは、同一や同質の日本人の像が取られているものだと言えるだろう。同じ日本人だということで、したて上げられている。

 日本人ということの質と量を見てみると、同じ質をもった者の集まりだとは言えそうにない。ちがう質をもった者どうしの集まりだから、どの人もみな同じ質をもった者だということだと非現実的になる。

 日本人ということの中には、色々な人が寄り集まっているのだから、それぞれの人で異なっている。日本人だからこうだということは言えず、その中のちがいは小さくない。それが日本人ということの質であると言えるだろう。

 日本人ということの質というのは、純粋なものであるというのではなくて、不純なものによっている。雑種によってなりたっている。日本人ということの質を純粋なものであるとするのだと、さまざまな人たちからなるじっさいの日本人の総体とはちがってきてしまい、虚偽意識におちいりやすい。

 日本人ということの量すなわち範囲内には、現実においてはさまざまな人がいる。その質というのは、人それぞれによってちがうし、全体の質ということになると、はっきりとしたことは言いがたい。全体の質というのは定まっているものとは見なすことはできづらい。よくわからないというのが本当のところだろう。

 日本人の全体の質というのは、はっきりとしたものというよりは、ぼんやりとしたものでしかないということになる。日本人の全体の質がぼんやりとしたものだとすると、日本人はさしあたってはどうあってもよいということになる。こうであらねばならないといったような、ねばならないというのを当てはめることはとくにいりそうにはない。

 日本人の範囲内には多くの人がいるのだから、その範囲内にどのような人がいてもとくに不思議ではない。ぜんぶがぜんぶまともな人だけだったら、それはそれで変である。じっさいに言っても、なにしろ日本人の範囲内には、数だけから言ってもそうとうな数の人がいる。じっさいに言ってそうであるから、そこからすると、ちがいがあって当然だということになる。

 一人ひとりの日本人について、固定した見かたは必ずしもとれるものではなくて、時や場所によってもちがうだろうし、時期によってもちがう。この人はこうであると、いったい誰が決めつけることができるだろうか。

 一人の人間であっても、過去や未来の自分はいまの自分からすると他者のようである。人間の体というのは、数週間から数ヶ月たつと、体の成分はほとんどすべて入れ替わるという。体の成分が入れ替わってしまえば、それは別人だということも言えないではない。

 一人の人間においても、過去や未来の自分はいまの自分からすると他者のようなので、それは集団においてもまた当てはまることである。過去の日本人や未来の日本人は、いまの日本人からすると他者だと見なせるところがある。

 変わらない実体として日本人の全体をとらえてしまうのはまちがいになりかねない。そうしたまちがいになりがちなのは、日本人という言い方を用いていることが大きい。日本人という記号表現(シニフィアン)を用いることによって、それがさし示す記号内容(シニフィエ)がどうかということが改められないことになると、時間的に連続して安定して同じものがあるという錯覚を引きおこす。

 記号表現として日本人を持ち出すにしても、日本人は決定的にこうだというふうには決めつけることはできそうにはない。(一人ひとりを見ることによって)下から見ても決めつけられないし、(全体によって)上から見てもまた決めつけられないものだろう。

 参照文献 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『現代哲学事典』山崎正一 市川浩編 『トランスモダンの作法』今村仁司他 『レトリックと詭弁 禁断の議論術講座』香西秀信