いま一度、改めてとらえ直してみることを、市長にはできたらのぞみたい―メタ認知の必要性

 昭和天皇を侮辱(ぶじょく)することは許されない。そうしたことで、名古屋市長は、あいちトリエンナーレのもよおしに抗議するデモに加わっている。このもよおしでは、従軍慰安婦にまつわる作品や、昭和天皇を否定する作品があつかわれているとされている。

 いっけんすると、名古屋市長の行動は、日本の国を大切にしたり、天皇(昭和天皇)のことをおもんばかったりしているようではある。そのように受けとれるところはあるが、改めて見ると、市長としてとるにふさわしい行動であるのかどうかを問いかけられる。

 市長としてのとるべきふさわしい行動というのは、ある一つの立ち場に肩入れすることではないのではないだろうか。いっけんすると、あいちトリエンナーレのもよおしについて、それをよしとするのも一つの立ち場だし、おかしいとするのもまた一つの立ち場のようではある。そこで、一つの立ち場である、おかしいとするものに肩入れしてしまうと、それはそれで市長としてのあるべきふさわしい行動とはならなくなるおそれが出てくる。

 かりに、あいちトリエンナーレにおいて、従軍慰安婦にまつわる作品や、昭和天皇を否定する作品があつかわれているのだとして、それらについてを白か黒かや一か〇かで見なすのは適したことではないのではないだろうか。白か黒かや一か〇かでは見なさないようにして、二元論によって決めつけないようにしたい。

 色々な立ち場があることをくみ入れて、それらのあいだのどれかだけに強く肩入れするのではないようにする。どれかだけに強く肩入れしてしまうと、偏ったあり方になってしまう。偏りを避けつつ、中立であるように努めて、そのうえでおかしいところがあるのなら批判をすることはあってよい。そのさい、頭ごなしにまるで駄目だといったような批判のしかたは行きすぎになりかねないので、(誰がどう見ても駄目だというものでない限りは)全否定にはならないように気をつけることがいる。

 いっけんすると、という点がくせものである。いっけんすると、従軍慰安婦にまつわる作品や、昭和天皇を否定する作品は、日本の国をおとしいれようとしているように受けとれるが、じつはそうではないという可能性がある。また、いっけんすると、日本の国をよしとしたり、時の権力や権威をよしとしたりすることが、よいことのようでいて、じつはそうではないということがある。

 たった一つの文脈だけしか成り立たないのではないから、一つの文脈だけをよしとするのだと、つり合いを欠く。不つり合いになると、中立性が損なわれるので、市長としてのあるべきあり方だとは言えなくなる。市長のふるまいだけに焦点を当てて見れば、そういうことが言えるだろう。そうかといって、市長と対立している愛知県知事のしていることが完ぺきに正しいとは言えないのはあるかもしれないが(白か黒かや一か〇かの話ではないとすると)。

 人間のなすことというのには、熱いものと冷たいものとがある。熱いものというのは、一時の感情によってつっ走って行ってしまうものだ。それにたいして歯止めをかけるのが冷たいものである。熱いものと冷たいものとのあいだのつり合いを取るようにすることが、中立性をとることであって、それが損なわれないようにすることが市長には求められる。

 従軍慰安婦にまつわる作品や、昭和天皇を否定する作品は、熱さを引きおこしがちなものであるからこそ、そこで必要になるのは、冷たさによるメタ認知などをとることだ。すぐにこうだとは決めつけないで、改めて見直すようにして、それから判断を下すようにするのでも、遅いことはないだろう。

 参照文献 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 「「新しい」ということ 哲学的考察」(「青年心理」一九八七年三月号)今村仁司 『メタ思考トレーニング 発想力が飛躍的にアップする三四問』細谷功(ほそやいさお)