ロシアと戦争をしてでも北方領土をとり返すという発言そのものが、民主主義に反しているところがあるのではないだろうか(戦争の手段をとるのは、議論の放棄であって、民主主義とは言えそうにない)

 北方領土をとり返す。そのためにはロシアと戦争をすることがいる。そうしたことを言った野党の議員にたいして、糾弾決議が国会で出された。議員を辞職するのをうながすものだ。

 当の野党の議員は、国会は裁判所ではないとか、人民法廷ではないということで、受け入れるつもりはないようだ。この議員は、心身が不調になったということで、二ヶ月ほどの療養をするということで、議員は辞めないでいながら、休んでいるようだ。雲隠れして、ほとぼりが冷めるのをまつつもりなのだろうか。

 糾弾決議について、反対の声が一部ではあがっている。民主主義なのだから、国会が議員を辞めるのをうながすのではなくて、選挙で国民からの審判をあおげばよい。選挙が行なわれるまでは、議員を辞めないでもよくて、そのままつづけてよいということである。

 たしかに、民主主義ということでは、選挙によって国民がその政治家を通すか落とすかを決めればよいというのはある。そうはいっても、たとえ民主主義とはいえ、極端な話ではあるかもしれないが、ナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーもまた民主主義の選挙によって選ばれたのだから、選挙をそこまで万能視してもよいものだろうか。

 議論の形を見てみると、まず一つには、ロシアと戦争をするという発言を野党の議員はして、それにまつわるまずいことをしでかしたのがある。お酒を飲んで、北方領土の元島民の方にからんだり、元島民の方と記者とのあいだの取材に勝手に割りこんで邪魔をしたりした。それらを根拠として、糾弾決議が出されたのだ。

 この糾弾決議にもし当の野党の議員が反論をするのであれば、根拠を見るようにしなければならない。当の議員は、じっさいにまずい発言や行動をしたのがあるのだから、それを認めるのであれば、根拠は当たっているというふうになる。根拠が当たっているのであれば、糾弾決議は、そこまでおかしいものだとは言えないはずなのである。とんでもなく飛躍したものではない。

 当の野党の議員は、国会は裁判所ではないとか、人民法廷ではないとかと言っているが、これは糾弾決議にたいする反論にはなっていない。論点がずれているのだ。自分が引きおこした危機に対応できていないし、そこから逃避していると言わざるをえない。危機に対応せずに逃避しているあかしとして、この議員は二ヶ月ほど休むようなのである。これは公職につく議員のあり方としておかしいことなのではないだろうか。

 参照文献 『論理が伝わる 世界標準の「議論の技術」 Win-Win へと導く五つの技法』倉島保美 『一三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら)