南京事件(大虐殺)などの歴史のできごとにおける、箱(ボックス)による分類と、度合い(スケール)による量の見かた

 南京事件(大虐殺)はあったのか。 これがなかったとすると、中国の人はデマや嘘を言っているのだろうか。もしデマや嘘を言っているとすれば、南京事件そのものがデマや嘘だということになる。

 南京事件は、もしあったのだとすれば、歴史においておきたできごとだ。これを見るさいに、まちがいなくあったできごとだというふうに見るか、それともなかったことであって、デマや嘘なのだと見ることのちがいがある。どちらにおいても、本当にあったとするのや、その逆にデマや嘘だという、それぞれの箱(ボックス)に分類することになる。

 箱に分類するのではなくて、度合い(スケール)で見ることができる。度合いは量である。まちがいなくあったのであれば一〇〇のうちの一〇〇である。まちがいなくデマや嘘なのであれば、一〇〇のうちの〇だ。一〇〇とも言えないし、〇とも言えない。そう言えそうだ。じっさいのところは、一〇〇でもなく〇でもなく、そのあいだにある。

 一〇〇のうちで一〇〇かそれとも〇かということであれば、二元論となる。それとはちがい、一〇〇でもなく〇でもなくそのあいだであるとするのは連続観だ。決疑論(カズイストリ)による見かただ。

 まったく史実(資料)がなく、口伝えの伝承しかないのであっても、それだからといってそのことがまちがいなくデマや嘘だとは言い切れそうにない。たとえ伝承によっているだけなのだとして、変形や加工がされてしまっているとしても、元となることはおきたということはある。元となることがおきたから伝承されているということはあるから、それも一つの歴史であるというのは成り立つ。もしかしたら中には本当のことではないことがあるのは確かだが。

 南京事件はまちがいなくなかったのであって、デマや嘘なのだとするのなら、非存在を証明することになって、直接の証明ではなくて間接の証明を用いられる。なかったの反対のあったという仮説をとって、その仮説を否定できれば、なかったことを間接的に証明できる。このさい、あったという仮説はそれなりに成り立つのではないだろうか。ということは、あったおそれがあるということになる。まちがいなくあったのなら一〇〇のうちの一〇〇だが、そこまでは言えないにしろ、あったおそれはあるのだとすると、箱ではなく度合いとして見ることができる。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『これが「教養」だ』清水真木