容疑者の勾留の延長は認めない。東京地方裁判所は、元日産自動車の会長であるカルロス・ゴーン容疑者(氏)について、そのような決定をしたという。東京地検特捜部はゴーン氏の勾留の延長を求めていたが、東京地裁はこれを認めず、裁判所が地検のはしごを外したと見られている。
いっそのこと、日本の刑事事件の取り調べにおけるまずさについて、ゴーン氏に改革してもらうというのはどうだろうか。ゴーン氏に改革をしてもらって、日本の刑事事件の取り調べにおける不透明さを改めて、透明化して行く。容疑者について、取り調べの過程において、有罪推定で見るのではなく、無罪推定で見るようにする。容疑者の人権を保障できるようにする。
私人である一般人や民間人には、報道被害にあわないようにすることがいる。容疑者ということで、あたかも悪いことをやったにちがいないというふうに報じてしまうのはよいこととは言えない。まだ黒と決まったのではなく、白であるかもしれないのだから、黒だと決めつけるのには待ったをかけたい。そのいっぽうで、公人である政治の権力者や権力に近い者には甘い報じ方になっているのはいただけない。権力チェックをしっかりとやらないのは、大手の報道機関(主としてN◯K)が権力の奴隷になっていることをあらわす。
ゴーン氏が悪いことをやったのかどうかは本当のところはまだわからないが、それを調べるさいに、悪いことをやったとするのだけではなく、やっていないかもしれないというのもとるようにしないとならない。悪いことをやったのにちがいないとしすぎるのは、確証(確信)を持つことだが、人間には誤りはつきものだから、絶対化しないようにしたい。容疑者が悪いことをやったのにちがいないとする確証を強めすぎるのはよくないことだ。
不正をしているかもしれないのを追求するにしても、もっと巨悪がいまの政治の中心にいるのに、そこに挑まないのはどうしてなのだろうか。そこに挑んでこそ意義がある。政治の権力者や、権力者に近い者については、もっと厳しい追求をしてもよいが、それがされていないで放ったらかしになっているので、権力を持つ者がやりたい放題になってしまっている。
自浄の能力がまったくなく、腐敗してしまっているいまの与党の政権をそのままにするのは、社会にとってよくないことになるような気がしてならない。国家装置である裁判所や検察や、国家のイデオロギー装置である大手の報道機関(主としてN◯K)は、いまの与党による政権に丸めこまれて、社会がよくないことになるのに加担しないようにしてもらいたい。