法よりも、組織の中のおきてである不正な慣行のほうが優先されていたと見られる

 悪意ではなく慣行である。国や自治体が、障害者の雇用の数を水増ししていた疑いがあるのについて、自由民主党総務相はそう言っている。悪意ではなく慣行に従って、それでよいという認識だったと思う、としている。

 障害者の人たちのためを思って、雇用の数を水増ししていたわけではないのだから、善意によっていたとは言えそうにない。国や自治体は善意によっていたのだとは言えず、悪意によっていたのだと見なすのでもおかしくはない。不正を行なっていた意識はあったのだから、悪意があったというとらえ方はできる。

 総務相は、悪意ではなく慣行に従っていて、それでよいという認識だったと言っているが、慣行に従っていたのだからよいとは言えるものではない。赤信号みんなで渡れば怖くない、という慣行も中にはある。すべてというのではないにしても、中にはおかしいのやまちがった慣行があるのだから、それがそのままつづけて行なわれていたことはよいこととは言えない。慣行で行なわれているからというのは、それをそのままつづけて行なうことの必然の根拠には必ずしもならないものである。

 総務相が言っていることは、よくないまちがった慣行が行なわれていた、という以上のことを言っているものではないし、それは悪意ということとは別のものである。よくないまちがった慣行を国や自治体は行なっていて、それを悪いこととはせず、改めて見ることがまったくなかった、ということを総務相は言っていることになる。それが慣行として行なっていたということの意味だろう。

 よい慣行を残すのはよいが、悪い慣行は改めたほうがよい。少なくとも、改めて見直すことがあってよい。慣行として行なわれているというのは、それがよいことだという理由には必ずしもならないものである。よいものは残し、悪いものは改めて見るのがあってよいものだが、いまの首相による政権は、よい慣行を勝手にぶち壊し、悪い慣行を新たにつくろうとしているようなどうしようもなさがある。