対話のための対話と、改憲のための改憲

 対話のための対話には害はとくにない。しかし、改憲のための改憲には大いに害がある。対話のための対話はとくに問題と見なさないでもよいものだけど、改憲のための改憲は大いに問題視することがいる。そのように見なさざるをえない。

 首相は、対話のための対話には意味がないと言っている。それを言うのであれば、改憲のための改憲のほうこそが問題である、としたい。改憲のための改憲では、手段の目的化になってしまっている。手段と目的が自家撞着になってしまっているものである。

 何が何でも絶対に改憲をしてはならないということではないのはあるだろう。そうであるからといって、必要条件や十分条件を満たさないでもよいということにはならない。急ぎ足で改憲をめざすのは帝国主義にほかならない。これは(個人的には)肯定することができないものである。

 改憲をするさいの必要条件として、急ぎ足で改憲を目ざしてはならないというのがある。これは立憲主義を破壊するものだと見なせる。改憲を目ざすのだとしても、急ぎ足にならないようにして、歩幅をそうとうに小さく刻まないとならない。時間を十分にかけて慎重にして行くことがいる。なぜ歩幅をそうとうに小さく刻まなければならないのかというのは、最初の歩みはじめの出発点でまちがっているおそれが小さくないからである。最初の歩みはじめがまちがっていると、そのごもずっとまちがうことになるので、歩幅が大きいほどに認知の歪みが激しくなってゆく。

 改憲のための改憲をしないようにするためには、対話のための対話をいとわないようにするべきである。対話のための対話をするくらいのゆとりがほしい。対話のための対話だと思っていたのが、じっさいには対話のための対話ではなかったということはないではない。対話のための対話だったのが、途中から対話のための対話ではなくなることもある。

 改憲を急がなければならないという理由はとくにないのだから、対話のための対話をしていてはならないということはないはずである。対話のための対話をするのは価値がゼロのものではないだろう。改憲のための改憲は、害になってしまうおそれがけっして小さくない。改憲のための改憲ではない改憲と、改憲のための改憲を、きっちりと区別するべきであり、それらを(改憲派ということで)いっしょくたにするのはのぞましいことではない。いっしょくたにしてしまうと、改憲のための改憲と分別がつかなくなる。けじめがついていない。