中立や公正であり、偏向ではないのは、自分への批判をさせないということではないものだろう(議論や判断や仮説と人格とをなるべく分けるべきである)

 報道が、中立や公正ではない。偏った報道をしている。中立や公正ではなく偏ってしまっているのがあるとして、それを改めるようにするのならわかるのだけど、それとは別に、中立や公正を義務づける放送法の条文をなくそうとする案が政権ではとられているという。この案には懸念がもたれている。

 放送法で中立や公正が義務づけられてはいるが、現実にはあまり守られていない。現実にはあまり守られていないからといって、意味がないわけではないと見ることができる。条文をなくしてしまうのであれば、ますます中立や公正から離れて、偏りがひどくなってしまいかねない。

 中立や公正を義務づけるとはいっても、あくまでも努力義務ということであれば、そうでなければ罰が下されるというわけではないものである。努力義務なのであれば、建て前としての条文であるにすぎず、それがあってもなくても同じなのかというと、必ずしもそうとは言い切れない。そうかといって、ただ条文があるだけだというのであれば、お飾りみたいなとらえ方もできるし、積極の意味あいはそこまではないというふうにも言えないでもない。

 首相は、(一部の)報道機関の報道にたいして、偏向しているというふうに言う。そのように言うのは、必ずしも的はずれなものではない。それにくわえて、そのように言いたい気持ちもまたわからないではない。報道機関の報道が、すべてがすべて的を得た(首相などへの)批判というわけではないものだろう。

 報道機関の報道が偏向してしまうのは、偏向させようという意図からのものではなく、色々な制約があるためなのがありそうだ。結果として偏向してしまうということである。時間や費用などの制約による。そうした制約がある中で、これくらいのものならという満足の水準を満たすものが報道される。送り手の水準と受け手の水準はずれてしまうものではあるけど、最高水準のものを送り手がとることはなかなかできづらい。

 理想としては最高水準の無偏向のものがよいとしても、現実としてはある一定の水準ということになってしまう。最高水準のものしか認めないというのは理想によりすぎるが、かといってあまりに内容が偏向しすぎたものであれば受け入れづらいのはたしかだろう。

 報道機関は色々な制約をもつために報道が偏向してしまうのがあるが、その制約を首相は悪用してはいないだろうか。首相がたまにテレビ番組などに出演するさいに、テレビでは時間が限られているのを逆用(悪用)して、じっくりとした議論をせずに、自分への批判の声を聞き入れないようにしてしまっている。印象操作だ、などとして、自分への批判をしりぞけてしまうのだと、議論にはならない。話の論点がずれてしまうのである。これはのぞましいあり方とは言えそうにない。

 もともとテレビなどでは、放映できる時間が限られているのがあるので、じっくりとした議論をするようにはできていない。そうしたことを逆用(悪用)してはいけないという気がする。逆手にとって逆用(悪用)するのを避けられればよい。いっぽうでは(一部の)報道機関の報道が偏向していると言っておいて、もういっぽうでは(偏向が生じてしまう要因の一つである)時間の制約という仕組みを逆手にとって利用するのであれば、矛盾しているというふうに言わざるをえない。偏向はよくないことではあるが、それとともに詭弁や強弁もまた同じようによくないことだという気がする。