たんなる批判というだけではなく、親心みたいなものゆえの忠告でもありそうだ

 テレビのお笑いの番組で、顔を黒塗りにする。これは黒人にふんしたネタだった。顔を黒塗りにするのをブラックフェイスといい、欧米などでは政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)にそぐわないものだとして、表現が禁止されているという。そこで、日本のお笑いの番組でネタとして放送された顔の黒塗りが、一部から批判されている。公正でないというわけだ。

 この批判は、アメリカのアフリカ系アメリカ人の作家である、バイエ・マクニール氏によって投げかけられたものである。顔の黒塗りをしているのを見ることで、馬鹿にされていると受けとれる。不快感をもよおす。そうした心情がある。

 二〇二〇年に東京五輪が開かれるが、そこで顔の黒塗りの表現をすることもないではない。もしそうなれば、日本は世界のほかの国から批判を投げかけられることになる。そうなるかもしれないのが心配だ。マクニール氏のこの発言は、そこまで突飛なものとはいえそうにないのが現実だ。

 顔を黒塗りすることが、差別をする意図がなかったのだとしても、それはあくまでも動機の面にすぎない。それとは別に結果の面を見ることがいる。結果として、馬鹿にされたと受けとれたり、不快感をもよおしたりする人がいるのであれば、そこをくみ入れることがあってよい。あくまでも個別として表現をしたのだとしても、それが一般(普遍)にまでつながるものと受けとられれば、表現の失敗であると言えないでもない(厳しく言ってしまえば)。悪意はなかったとしても、人間のすることだから失敗することもある。

 日本は日本、アメリカはアメリカ、としてしまうのだと、悪く言われるところの文化相対主義のようになってしまいかねない。このように見なすのは、一見すると日本とアメリカとがそれぞれで横並びのようではあるが、じっさいにはそうはなりづらいものである。というのも、内集団ひいきがおきてしまうからだ。これは認知の歪みであり、そこに少し気をつけるのはあってもよい。自民族中心主義になってしまいかねない危うさがある。

 アメリカの基準を一方的に日本に押しつける、としてしまうのは(まったくそういうところがないとは言えないかもしれないが)、それとはちがったとらえ方もできる。ようは、双方向でこの問題についてとらえて行ければよい。それで非があるところは修正することができればさいわいだ。

 アメリカが世界の中心だから、その基準を日本に押しつけてくる、というのではなく、アメリカのよいところを日本にとり入れられればよい。日本がすべての面でアメリカを上回っているとはいえそうにない。劣っているところも少なからずあるだろう。アメリカは多民族社会であり、人種への意識の面では、日本よりも進んだところがありそうだ。であれば、そこを見習うことができる。日本はあくまでも日本のあり方をもっていればよい、としてしまうのにはあまり賛同できない。日本の中にも、じっさいに声を上げてはいないが、馬鹿にされていると感じたり不快感をもよおしたりする人はいることが察せられる。

 お笑いは娯楽であるから、どうしてもやらなければならない表現というわけではなさそうだ。これは、最優先というほどではない、といったことである。さまざまな人が色々な受けとり方をすることに配慮をすることができれば、公共の福祉に反しないようにできる。表現をする自由や権利があるのはたしかだけど、いっぽうで、楽しめなかったり不快に思ったりする人がなるべく生じないように努める義務(努力目標)ももつ。完全なものではないにせよ、そうしたのがある。なので、表現をするのとはまた別に、受け手の一部から投げられる批判の声を聞き入れて、それについていっしょに話し合うことがあったら生産的だ。間接的にではあっても、そうしたことができれば、お互いに歩み寄ることにつながりそうだ。どんな批判であれ、そのすべてを聞き入れるべきだとまでは言えないけど、しかるべき根拠がある批判であれば、耳を傾けるに値するものと見なせる。