お金を出せば買えるという点ではたやすいが、それをする前に、できることがそれなりにあるだろうから、それをすることにより平和を少しずつ築いて行くのはどうだろう(それから買うかどうかを検討するのでも遅くはないのでは)

 日本はトマホークを買え。そんな雑誌か何かの記事の見出しを見かけた。これは、国際政治学者の三浦瑠麗氏による説であった。トマホークというのは巡航ミサイルであるという。

 巡航ミサイルというのは、原子力潜水艦を海に沈めておいて、そこから発射するものだそうだ。数十秒で軍事破壊ができる。日本は専守防衛であり、敵基地攻撃能力をもつのが禁じられている。そのため敵の基地を攻撃できるミサイルはもてないことになっている。

 記事の中身は見ていないから、題名だけで推しはかってみると、日本がトマホークをもつべきかどうかは、必要性と許容性によって分けて見ることができそうだ。たとえ必要性があるとしても、だからといってそれだけをもってして認めてしまうのには待ったをかけられる。そもそも必要性が本当にあるのかどうかを改めて見ることもできる。必要性がかりにあるとしても、許容できるのかどうかも見ないとならない。決まりについては置いておくとしても、もっとほかにお金を使うべき領域があるのではないか。人々の自由の幅を少しでも広げられるものにお金を使う手もとれる。そのほうが、軍事にお金をかけるよりも効用は高いかもしれない。

 日本がトマホークをもつのは、一国の個別的安全保障の中での話と言えそうだ。それとは別に、国際連合による集団安全保障をもっと重んじることもできるのではないか。というのも、いくら集団安全保障が頼りないように見うけられて、個別的安全保障を充実させるのが頼もしいように見えるとしても、それを疑うことができる。個別的安全保障(や軍事同盟)は、それを充実させたとしても、戦争がおこらない保証は確実ではない。武器を持っていればそれを使いたくなるものだ。絶対にというわけではないが、そうした危うさがある。

 アメリカが先導してきたとされる戦う民主制(militant democracy)がある。反民主主義の勢力を敵と見なしこれを容認しない。このあり方が正しいものではなく、まちがったものであるとの見かたがとれる。そうしたことへの十分な省察が欠けているのだと、どんどんと戦う民主制に突き進んでいってしまいかねない怖さがある。アメリカに追従しているのが日本であり、それをこれまで以上に強めようとしている。より積極につき従おうとしている。それは、戦いに避けがたく巻きこまれかねないことをあらわすと見なせそうだ。参与(コミットメント)の度合いがどんどんと上昇していってしまう。ゆでがえる現象になりかねない。離脱(ディタッチメント)とそれによる高次学習をとる選択肢や機会はもてないものだろうか。

 参与というのが実証や実定であるとすると、それを重んじすぎることで、素朴な現実主義におちいりかねない。そこから数歩ほど引くということで離脱ができれば、武器を用いた無機によるものではなく、有機によるソフトパワーの平和みたいなのをさぐることができるのではないか。とはいえ、言うほど易しくはないだろうし、抽象論や理想論を言ってしまったのはある。