すりこまないのに越したことはないのはありそうだけど

 憲法学は、すりこみによる。そのような記事が、産経新聞に載っていた。憲法の法を学ぶ人たちは、すりこみを受けることになる。そのすりこみは、左翼に偏ったしろものである。そうして左にかたよった人ができあがるわけだ。これははなはだけしからんことである。

 すりこみの内容が左にかたよっているというのは、では逆に右ならどうなのだというのもある。右のすりこみなら、みんなが納得してそれを受け入れるのだろうか。そうとは限らないものだろう。ようは、かりに左にかたよったすりこみがあるとしても、それがいかなる理由によっているかがあげられる。たんなる陰謀として片づけられるものとは言えそうにはない。

 学びは、まねびからきているともいう。まねすることが学びにつながる。これをすりこみと言い換えることもできなくはない。悪いまねもあるだろうけど、そうとばかりは決めつけられず、よいまねもあるはずだ。それはよい学びと言ってもよいのではないだろうか。さらにそれを活かすことがいるものではあるだろうけど。

 日本の伝統芸能では、守破離と言われるものがあるとされる。これをふまえてみると、すりこみは守であるといえる。この守の段階は、はじめにあるものにすぎない。なので、そこを頭から批判してしまうのはちょっとちがうのではないだろうか。すべての人が守の段階でとどまるものと決めつけてしまうことはできそうにない。

 守の段階でとどまらずに、破や離まで行ければよいのがある。そうすればよさそうだ。これを逆に言うと、守の段階でとどまっているように見うけられるのであれば、それはけしからんことではないのか、と言うことができる。それについては、守の段階にとどまっているように見うけられるのだとしても、そこに保守の精神みたいなのが息づいていることがありえる。必ずしも革新をすることがよいとは限らない。

 いっけんすると守の段階にとどまっているように見うけられるとしても、その守が深まっているといったことがありえる。それに、まったくぴったりと寸分もたがわずに守であることはできづらい。どこかに、その人なりの個性があらわれるものである。たとえちょっとであったとしても、破や離が達せられている。そうしたことがありそうだ。

 すりこみがまったくないのであれば、守がなくて破と離だけ、みたいなことになるかもしれない。はじめは何らかのとっかかりとしての守があったほうが都合がよいのがある。その守について、どういうものがふさわしいのかが改められる。いずれにせよ、完ぺきな守はありえないと言えそうだ。どこかに多少なりとも非があることは自然である。あとは、理由を見てゆけばよいのがあるし、妥当であるかどうかを説明し合ったり論じ合ったりすればよいのがありそうだ。