国どうしの関わりにおいて、認知の不協和がおき、それを解消しようとするさいのやり方

 国の中で、禿げ山が多かった。そこへ緑を多く植えて、自然を豊かにした。社会基盤が不十分だったのを、色々と近代的な設備を整えた。経済についても、成長させて発達させて、よいほうへと進める。その他、教育なんかについても、近代の観念の大切さを広めた。

 かつての韓国にたいして、日本はこのようなよいことをした。よいことをしたのだから、感謝されてもよい。しかしそうではなくて、逆に恨まれてしまうようなあんばいだ。このようになってしまうと、認知的不協和がおきてくることになる。

 簡単に言うと、このようになる。日本は韓国に色々とよいことをしてあげた。しかし韓国はそれを感謝することがない。それどころか、恨んでくるところがある。こうなっていることから、認知的不協和がおきてくるわけだ。そこから、その不協和を解消するほうへと進んでゆく。

 すぐに不協和を解消するのではなく、あえて立ち止まってみることもできる。なぜ、認知的不協和がおきてしまうのかというと、いくつかの可能性があげられそうだ。まず、日本は韓国によいことをしたのではなく、実はしていなかったのがありえる。よいことをしたとする事実はないのである。それを、あったことのように言っているおそれがある。

 ほかの可能性として、日本は韓国によいことをした。そうした過去の事実がある。とはいえ、それだからといって、その事実をすぐに一般化することはできづらい。すぐに一般化してしまうのは早とちりだ。ふつう、自分が他に何かよいことをしたのだとしても、それはすぐに一般化されるものではない。限定化されるのがふつうである。

 日本が韓国へよいことをしたのだとしても、それはあくまでも、された側である韓国のほうが、これはよいことだったな、と感じるのでないとあまり意味がない。した側である日本がいくらよいことをしたと見なしていても、した側ではなくて、された側に評価の主導権があることはいなめない。された側が、これはありがた迷惑だったなだとか、よけいなことをしてくれたもんだな、と受け止めたのだとしたら、それが本当に近いのではないだろうか。

 日本にとってよいことを、かりに国益であるとする。そうであるとして、日本が韓国によいことをするのであれば、日本にとっての国益を捨てるのでないとならない。国益をかえりみないで、それをまっ先に得ようとはしない。このようであれば、韓国にとってよいことをするための必要条件が満たされやすい。

 日本が韓国へよいことをしてあげたとするのは、その見かたが日本の国益になってしまうところがありそうだ。そのような見かたをしてしまうと、日本の国益のために、韓国を利用することになりはしないだろうか。たとえば、日本が親で、韓国が子であるとすると、親の満足のために、子を利用してしまうようなふうである。そうしてしまうと、子が親に同質化されてしまう。

 日本が韓国へやったことが、よいことなのか、それともそうではないのか。この点については、少なくともちょっと決めがたいところがあるのではないかという気がする。あくまでもよいことをしたのにほかならない、と決めつけてしまうと、それは日本が自分たちを正当化することになる。しかし、韓国はそれを不当なものにほかならなかった、と言ってくる。そのどちらがふさわしいのかもあるし、それとは別に、上からの演繹でなしに、下からの帰納によって残されたさまざまな痕跡を見てゆくことがあればよさそうだ。

 よかれと思って、日本が韓国へ色々とよいことをしてあげた。これをまず認めるのだとすると、そもそも日本はなぜ韓国へそのようなことをしたのだろうか。よいほうへ向かわせようとしたからなのだろうか。その点については定かではないが、日本は韓国をよいほうへ向かわせようとしたのだから、日本は韓国にたいして倫理的な責任を少なからずもつのではないか。そうした責任がまったく無いとするのはちょっと納得できがたい。

 当為(ゾルレン)として、韓国は日本に感謝すべきだ、とするのは分からないでもない。しかし、実在(ザイン)として、韓国が日本を恨んでいるのだとすれば、その非の内のいくらか(あるいはすべて)を日本が負っていると言わざるをえない。この点については、ちょっと賛同を得られづらいおそれがあることはたしかだ。そのうえで、日本が韓国に介入したことが過去にあり、その結果として現に韓国がかくあるようになっているのであれば、そのかくあるようになっている原因(の一端)が日本にある、と見ることができる。これはあくまでも、たんなる解釈の一つにすぎないことはまちがいがないが。