目的合理性に難が見うけられるところがありそうだ

 怪文書のようなものだ。省庁から流出した文書について、官房長官はこのように述べていて、あとでその発言を(事実上)撤回することになった。この発言について官房長官は、怪文書というところがひとり歩きした、との感想を述べている。それでいうと、共謀罪についても、テロにたいする対策というのがひとり歩きしてしまったところがあるのではないかという気がした。

 テロへの対策ということでいえば、共謀罪の法案を新たに成立させなくとも、それまでの法律を用いることで手を打つことはできたのだと、憲法学者の木村草太氏は言う。これが正しいのだとすれば、それまでにある法律の範囲のなかで、打てる手をとってゆき、それでも足りないときにはじめて新たに共謀罪を議論して成立させればよかった。後の祭りのようではあるが、このように言うことができそうだ。

 テロへの対策とされた共謀罪が、じっさいにはたいしたテロの対策にはなりそうもない。このような部分があるとすると、なぜそうなってしまったのだろうか。ひとつには、動機と結果において、動機をもっぱら重んじてしまい、結果がどうなるのかがないがしろにされたのがありえる。当為(ゾルレン)と実在(ザイン)において、当為に重きがおかれて、実在のほうが軽んじられるところがあった。テロへの対策による義(正義)の単一性にこだわるいっぽうで、その義の複数性が反映されることが十分にあったとはいえそうにない。

 建て前としては、テロへの対策というのは言われてもよいことではあるけど、それは集団の観点からふまえられることである。それとは別に、本音の思わくはどうなんだみたいなのが色々なところから言われていたけど、それが十分に汲みとられたとはいえそうにない。政治家がしばしば好むものである、大きな言葉による建て前もあってよいものではあるけど、それが過剰となってしまうと、よからぬほうへ走っていってしまいかねないところがある。そこに気をつけることがいりそうである。

 目的をもつとしても、それにたいする手段がふさわしいものなのかどうかを、そのつど立ち止まって省みることがあればよかったのではないか。それがないのであれば、いっけんうわべでは合理的なようであっても、じっさいにはたんなる教条主義イデオロギーになるのを避けづらい。そうした集団的独断(アサンプション)による教義は盲信しないで、できるだけ相対化されることがいるものだろう。

 ひとつの世界像を打ち立てて、それにもとづいた現状認識をとる。そうしたさいに、その認識は自分たちの利害がからんでいることが少なくないだろうから、必ずしも客観的なものとは言いがたいところがある。ほかの少数派の人たちなどの別の利害もあるわけだから、そこをなるべく尊重するようにできればさいわいだ。自分なりの利害によって、それぞれが別の角度からの認識をもつ自由がある程度はあってもよいものだろう。何かひとつの世界像だけが正しい認識であるとして基礎づけられるのは、避けられたほうが無難だ。

 テロリズムは暴力によるわけだが、これは公の権力にもあてはまるところがないでもない。暴力は排除なわけだけど、権力もまた排除をこうむった外部性をもつ。権力はさん奪される。それが聖別化されて正当化されることで大半の人が認めて受け入れるものとなる。しかしその正当化が崩れてしまえば、権力は暴力による支配に転じる。そうしたおそれがあるから、自分からすすんで(下からの)信頼を失ってしまうようなことは避けられたほうがのぞましいだろう。信頼できない人に任せてもしかたがないわけだし。